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  多民族国家だった旧ユーゴ 激しい内戦、分離・解体
92 CE
オーストリア
スロヴェニア
イタリア
クロアチア
ハンガリー 1530 ルーマニア
ヴォイヴォディナ 自治州
セルビア
11
37 10
12 21 14
ボスニア・
ヘルツェゴヴィナ
モンテネグロ コソボ 自治州
マケドニア
ギリシャ
93
94
92 10
92
8980N53
AT O
94 84
 11
95 OTOT
NA
NA
アドリア海
 前々回の末尾近くで書 いた明石康氏が国連事 務総長特別代表に任命 された旧ユーゴスラヴィア の紛争は、その後も激し さを増す一方だった。特 に 年以降、ボスニア・ ヘルツェゴヴィナでの戦闘 が国際社会の関心を集め ることになる。 年に冬 の五輪を開催した首都 サラエボは、美しく整然 とした街だったが、戦禍 に巻き込まれ目を覆う 廃墟と化して行った。現 地から届く映像には、世 界の若人が集い平和の交 歓に沸いたスタジアムが 無惨な遺体置き場とされ る有様が映っていた。  発端は、 年3月に、 スロヴェニア、クロアチア、 マケドニアに続いてボス ニア・ヘルツェゴヴィナが 旧ユーゴ連邦からの独立 を宣言したことにさかの ぼる。  第二次大戦後に成立 したユーゴスラヴィア社 会主義連邦共和国は、 大戦中、ナチスへのパル チザン活動を指揮したヨ シプ・プロズ・チトー元 帥がソ連からの自立を目 指したことで、東欧社会 主義圏で独自の立場を 堅持した。「モザイク」の 異名があったほど複雑に 入り組んだ複数の民族
がセルビア、モンテネグ
ロ、スロヴェニア、クロア
チア、マケドニア、ボス
ニア・ヘルツェゴヴィナの
6つの共和国と、セルヴ
ィア内の2つの自治州を
構成、この複雑な連邦
をチトーは「兄弟愛と統
一」を標語に、独特のバ
ランス感覚とカリスマで
まとめ上げた。東西冷
戦下でも東側のワルシャ
ワ条約機構に加盟せず、 ったセルビア人は、セル
うやく動き始める。クロ
アチア人勢力を説得して
ボスニャク人勢力と再び
同盟を結ばせ、3月1
日には首都ワシントンに
両者の代表を呼びつけて、
ボスニャクとクロアチア
人の連邦国家形成を決
めさせた。
 4月には北大西洋条
約機構= 軍に
よる空爆も行われた。さ
らに、ボスニャクとクロ
アチア人勢力に対しアメ
リカの軍事援助も始ま
る。 月には、依然劣勢
のボスニャク勢力を支援
するため が3
度目となる空爆を実施。 た駆け引きのできないデ の上に国際社会の監督機
Untitled,(Detail 81)
徒を中心とする郷土防 衛隊との間で内戦を始め た。同月末には、セルビ アとモンテネグロが「新
 ボスニアでは、 年 月までの戦闘でセルビア 人とクロアチア人勢力の 支配領域が定まってくる と、 年春頃からクロア チア人とボスニャク人の 間でも戦闘が始まり、同 年8月には南部ヘルツェ ゴヴィナ地方はクロアチ ア人の勢力範囲となり、 以後、残り地域の支配 権をめぐるセルビア人と イスラム教徒ボスニャク 人の戦闘が続いた。クロ アチア人勢力がセルビア 人勢力と同盟を結ぶ動
かった。模様眺めだった ボスニャク勢力の拠点都 ークに留まったまま米メ クリントン政権は人道的 市を次々陥落させ、7 ディアの報道に注目する 立場からの介入を求める 月には国連が安全地帯に 日々だったが、伝えられ 動きが国内外で強くなっ 指定していたスレブレニ る協議は、アメリカの解 たため、 年に入ってよ ツァで8千人以上を組織 決案を当事者に押し付
国際ジャーナリスト 内田 忠男
年には隣接するギリシ ャ、トルコとバルカン3 国同盟を結び、両国が 加盟する西側の軍事同 盟 に近い立場
ビア民主党創設者の一人 だったラドヴァン・カラジ ッチを指導者として、4 月にボスニア北部を中心 に「ボスニア・ヘルツェゴ ヴィナ・セルビア人共和
「連絡調整グループ」と
して、オハイオ州デイト
ンに招き、戦闘当事者 る大統領評議会を作り、 3者に和平協議に応ずる その議長は8ヵ月ごとに よう強い圧力をかけた。 交代する輪番制で事実上  場所をメディアを通じ の国家元首となるが、そ
さえ取った。
  年5月にチトーが没
した後は、集団指導体
制で統一は維持したが、 軍を組織し、イスラム教
年の東欧革命後に各 共和国の独立意欲が一気 に高まり、分裂・解体へ の道を歩むことになった。  そうした中で、旧連 邦維持に執着したのがセ ルビア共和国幹部会議 長スロボダン・ミロシェ ヴィッチで、スロヴェニア、 クロアチア、マケドニア が独立宣言するたびに、 地域在住のセルビア人保 護などを理由に連邦軍 を送って介入し、独立を 妨害した。  ボスニア・ヘルツェゴヴ ィナは、独立宣言翌月の
ブルガリア
ウォーレン・クリストフ ァー国務長官が議長とな り、細部の交渉はリチャ ード・ホルブルック国務 次官補が主導、セルビア 大統領ミロシェヴィッチと クロアチアのフラニョ・ト ゥジマン大統領、ボスニ ア・ヘルツェゴヴィナから はアリヤ・イゼトベゴヴ ィッチ大統領とムハマド・ サツィルベイ外相が出席 して、協議は 月1日に 始まった。  現地に行っても会議を 直接取材する見込みがな いと知って、私はニューヨ
設けられ、その「上級代 表」が、和平の実施と継 続に必要と認められる時 は、直接立法権や人事 介入権を含む強力な内 政介入権を発動できる ようになっている。  名ばかりの主権国では ないか。アメリカが主導 して、無理矢理作り上 げた和平合意であって、 この統治構造は四半世 紀余を過ぎた今も継続 している。クリントン政 権の傲慢で高圧的な強制 の産物でしかなかった。
年4月に当時の欧州 ユーゴスラヴィア連邦」を
共同体 が国家承認、 5月には国連にも加盟し て独立国としての体裁を 整えたが、旧ユーゴ内で も特に複雑な人種構成 で、ボスニャク人と呼ば れるイスラム教徒が半数 を占め、セルビア人が %、クロアチア人が % ......。  旧連邦への執着が強か
結成、旧連邦軍のボスニ
ア出身セルビア兵が新ユ
ーゴ軍と合流して参戦し
た。
 国際社会は、この内戦
をセルビアのミロシェヴィ
ッチ政権による侵略行為
と見なし、5月末には
国連が新ユーゴ(事実上
はセルビア)への制裁を
決議した。国連は、こ
れに先立つ同年2月に、 きなどもあり、欧州の一 クロアチアとセルビア両 角で十字軍時代さながら 共和国がクロアチア内 のキリスト教徒とイスラ 戦について無条件停戦協 ム教徒の戦闘が繰り広 定に調印したのを機に、 げられた。 UNPROFOR=国連保護  国際社会は概してボス 軍と名付けた小規模な ニャクに同情的だったが、 平和監視部隊を派遣し ロシアのエリツィン政権は たが、ほとんど役に立た セルビア支持を強く押し
的に殺害する虐殺事件 ける気配が濃厚だった。 も起きた。ボスニャク人 当事者たちは、それぞれ 男性を絶滅させる「民族 に抵抗したようだったが、 浄化策」とされた。8月 最終的にはアメリカの圧 末近くにはサラエボの中 力に抵抗できず、 日に 央市場を砲撃して市民 「合意」の成立が告げら
国=スルプスカ共和国」 を宣言して独自の共和国
セルビア人らは対抗策と して国連保護軍の兵士を 人質として拘束する挙に 出たため、兵士を派遣 していた英仏両国は空爆 の停止を主張、空爆続 行を主張するアメリカと 対立した。  クリントン政権は右往 左往の印象で、決め手 となる対策が打ち出せな い。見兼ねたジミー・カ ーター元大統領が仲介工 作に乗り出し、 年1 月1日から4ヵ月の停戦 にこぎ着けたが、その期 限が切れると、再び激し い戦闘が始まる。セルビ ア人勢力は総攻撃に出て
イトン郊外のライト・パ 関として主要国による和 ターソン空軍基地とし、 平履行評議会なるものが
なかった。
出し、制裁にも参加しな
アルバニア
人が死亡した。  ここに及んでアメリカ もようやく腰を上げる。 9月から 月にかけて、 米露を中心にバルカン地 域に影響力を持つ諸国を
れる。その文書は 月 日にパリで署名されたが、 紛争の最終解決には遠い 内容だった。  当初の国境のまま「国 家」として存続させるた めに、3つの主要民族か ら選ばれた代表者によ
(一部敬称略、つづく)
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