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ソ連邦崩壊、CIS創設 西側との協調優先
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Yeltsin on 22 August 1991 / Author:ITAR-TASS, CC BY 4.0
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反クーデター勢力の勝利を祝うエリツィン(1991 年 8 月 22 日)
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1994年が明けて間 もなく、モスクワに出か けた。クリントン大統領 初のロシア公式訪問の同 行取材で、私にとっても、 ソ連邦の解体消滅後初め てのモスクワだった。 冷戦を終結に導き、新 たな世界秩序をもたらし たミハイル・ゴルバチョフ・ ソ連共産党書記長は、す でに表舞台から姿を消し ていた。急進改革派とし て売り出したボリス・エ リツィンが、ソ連が国際社 会で果たしてきた権能を そっくり後継したロシア連 邦の大統領としてクリン トンのカウンターパートに なっていた。そこに至る経 緯を概説しておこう。
持を目的に、「国家非常 しかし、支持を失った
事態委員会」を自称して のはゴルバチョフも同じで、
権力奪取を試みたのだった。 同月 日、共産党書記長
筋書きはウラジーミル・ ポストからの辞任を表明、
クリュチュコ 議長が 日には最高会議が共産 のクーデター」を起こした 起草し、ゴルバチョフの別 党の活動停止を決め、ソ ようなものだった。ゴルバ 荘の名から「あけぼの作戦」 連共産党は事実上崩壊し チョフ大統領は 月 日に を暗号名とした。ヤナー た。その一方で、クーデ 「私は不安をもって去る」 エフらは 日夕刻にクリ ターから国を救ったエリツ と憂色をこめたテレビ演 ミヤ半島の別荘で休暇中 ィンは勢力を拡大、 月 説をして辞任、 年末を
まざまな点で変わっていた。 私たちの宿舎も、かつて はソ連側に決められたが、
◇ ゴルバチョフは、 年3 月のソ連憲法改正で新設 された「大統領」の座につ いたが、翌年8月に起き たクーデターで、ソ連共産 党が事実上解体し、書記
へと軌道修正する関頭に 立っていた。
年1月 、 の両日、 クレムリンで開かれたク リントン大統領との初の 首脳会談では、朝鮮半島 や中東地域で核兵器など 大量破壊兵器の拡散を防 ぐことが重要との認識で一 致、米露双方が互いを長
長の身分を失う。 このクーデターは、 年 8月 日、ソ連を構成し た の共和国指導者が各 共和国に権限を大幅に移 譲する新連邦条約に調印 する前日、ゲンナジー・ ヤナーエフ副大統領らの保 守派グループが旧体制維
(一部敬称略、つづく)
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バルト3国を除く の旧 ソ連加盟国が 創設 の署名式を挙行した。(た だしウクライナ、モルド バ、トルクメニスタンは同 条約を批准しなかった) 8月にクーデターを鎮 圧したエリツィンが「第2
主役となったことを世界に 印象付けた。
は、 年1月に貿易・価 距離弾道ミサイルの標的
待に応えられなかったこと への反省と民主主義の原 則を守って大統領を辞任 する旨を述べ、「 世紀が 始まる2000年を迎え るに際し、ロシアには新し い指導者が求められてい る」として、首相に起用し ていたウラジーミル・プー チンを後継大統領に指名 した。これが今日に至る 全体主義国家への逆戻り
国際ジャーナリスト 内田 忠男
◇
年のレーガン・ゴルバ チョフ首脳会談以来5年ぶ りで訪れたモスクワはさ
としないことでも合意、ロ シアが核弾頭の削減に伴 い、高濃縮ウラン500 トンを原子力発電所で使 用できるまでに低濃縮化
のゴルバチョフ大統領を襲 い、権力移譲を要求して 拒否されると、そのまま 大統領を軟禁、 日早朝 に国営タス通信を通じ「大 統領が健康上の理由で執 務不能となり副大統領が 大統領職務を引き継ぐ」 と宣言、モスクワ中心部 に戦車部隊を出動させた。 しかし、ロシア共和国の ボリス・エリツィン大統領 が「クーデターは違憲、国 家非常事態委員会は非合 法」との声明を発表して、 ゴルバチョフ大統領の身の 安全確認と臨時人民代議 員大会の招集などを要求、 反乱側の戦車に登ってロシ ア国旗を振って見せた。市 民たちもホワイトハウスの 別名のあったロシア共和国 最高会議ビル周辺にバリ ケードを構築、クーデター 派ソ連軍と戦う姿勢を鮮 明にしたためクーデターは 失敗に帰した。
8日にはベラルーシの旧ゴ もってソ連邦は崩壊、核兵 ルバチョフ別荘にベラルー 器の発射コードを含むソ連 シ、ウクライナのリーダー の大統領権限はエリツィン を招いて秘密会議を開き、 に移譲された。
準の低下も明らかだった。 生産の減少、企業債務と 失業率の増大などが続く
の「平和のためのパートナ
ーシップ」計画に参加する
意向も表明した。
アメリカとの協調姿勢
は維持しながらも、国際
社会で「大国」としての地
位を確立したい姿勢がに
じみ出ているように感じた。 統と格式を感じさせるペ
3国がソ連邦を設立した 1922年の連合条約か らの離脱し、独立国家共 同体 を創設するこ とで合意。同 日にはカ ザフスタンのアルマアタで グルジア(現ジョージア)と
エリツィンは 年明け 早々の1月3日に離任直 前のジョージ・ ・ ・ブ ッシュ大統領をモスクワに 招いて第2次戦略兵器削
からしきりに秋波を送って くる。こうした女性がい ることは、庶民の生活レ ベルが落ち込んでいること の証左と受け取った。 ソ連邦の崩壊に伴い、「ロ シア共和国」から「ロシア
的傾向が強まり、国際社 会に対する影響力の回復 が叫ばれてもいた。 エリツィン大統領は、私 たちが訪問する直前の 年 月に、大統領に強大 な権限を与える新憲法を 成立させ、その下で改革 を実行しようとしていたが、 就任以来唱えてきた急進 的改革と、西側との協調 優先の路線から、緩やか な経済改革と、大国とし ての主張を押し出す外交
このエリツィンによる統 治は、 年に対外債務が デフォルト=債務不履行に 陥る通貨危機やチェチェン 共和国への軍事介入など 危機をはらみながら 年 末まで続いたが、アメリ カはじめ西側諸国との関 係は次第に悪化、 年 月に北京を訪問して江沢 民国家主席らと会談した 折には、「クリントンはロ シアが完全備蓄の核兵器 を保有する大国であるこ とを忘れているようだ」と 発言、近年のプーチン大 統領に酷似した恫喝もし ていた。ただ国民の人気 も衰え、同年 月 日に テレビ演説で、国民の期
ンクラブのダイニングで夕 食をご馳走して下さり、 ユーゴの現状について細か な解説をしてくれた。一 言で言えば旧ユーゴの再統 一は「絶望的」であり、民 族ごとの小国家に分裂す るのは避けられない、ただ、 そこへ向かうまでの武力闘 争が厄介で、国連の手に あまる、ということだった。 ホテルに帰って部屋のテ レビをつけると、カリフォ ルニア州ノースリッジ大地 震の生々しいライブ映像 が映し出された。世界中 がリアルタイムでつながっ ていることを痛感させら れた旅でもあった。
減条約STARTIIに調印、
新たな米露関係の一方の 連邦」に名を変えたロシア
格・通貨の自由化を断行、
国際通貨基金 の助
言に従い、市場経済への
移行を急ぎながらマクロ
経済の安定に向け厳格な
緊縮財政を行ったが、 することを約束、これを 倍以上というハイパー・イ 受けて米側は向こう 年 ンフレーションに見舞われ、 間に120億ドル相当の そうした押し付けや規制 年の はマイナス 低濃縮ウランを買い取る
は一切なくなった。外資系
の高級ホテルも進出して、
暗く沈んだモスクワが表
情も一変していた。ただ、
ホテルのメインバーに行く
と、一目でそれとわかる
女性がカウンターの向こう 一方、国内には民族主義
を生むことになる。 モスクワ訪問の帰途、 内戦状態の旧ユーゴに国連 事務総長特別代表として 派遣されていた明石康氏 に会うため、クロアチア の首都ザグレグに向かった。 明石さんは、地味だが伝
%近くに落ち込んだ。 こととした。また、エリ 急進的改革の無理が随所 ツィン大統領はロシアが北 に露見し、国民の生活水 大西洋条約機構