Page 11 - Yomitime448
P. 11
[ 11 ] 06/23/2023
YOMITIME・WWW.YOMITIME.COM・info@yomitime.com・
9 4
21
98
1 7
CE12NA AE93 N
APE AP C
CE
15
21
クリントンの“横取り”現象再び APECで見せた仮初の熱意
1993 年の APEC サミットに首席した各国首脳陣 クリントン大統領(中央)の右側に立つ細川首相
World leaders at the 1993 Asia-Pacific Economic Cooperation Summit,
Blake Island, Seattle, WA, November 1993 (William J. Clinton Presidential Library/Photo public domain)
11
APE C
APE C
A 11
PE N A89 C
91APZES11 AS
NG P
21
C
APE
95
ビル・クリントンによ る“横取り”現象は 年
ンは、これを首脳レベルの 会議に格上げしようと考 えたのだった。
易していたが、新聞記者 姿に議員バッジまでつけた 時代に読売と朝日でサツ 従来の首相とは明らかに 回りがほぼ同期の細川護 一線を画したスタイルで好 煕が8月に首相となり、 感が持てた。
ワシントンで首脳会談を 開くことで合意したので、 そこに向けて日米間の協 調を一層促進していきたい と思います」とも述べ、外 交に並々ならぬ意欲を垣 間見せるとともに、自分 の言葉と価値観で話をす る透明性の高さを印象付 けた。 率直さは、クリントン にも通じたようで2ショッ トの場面では笑顔に包ま れて旧知の間柄とも思わ せる和やかさを演出した。 ただ、この日米首脳会 談で、細川は日本国内で 未調整の所得減税を実施 する考えまで踏み込んだ 発言をし、翌年2月 日 に開かれる会談までに、 所得減税に見合った財源 確保策を決める必要を迫 られることになる。税の 直間比率を改めるとすれ ば、消費税増税がいちば んの近道で、細川内閣の 陰の実力者とされた小沢 一郎と大蔵省の間では方 針の一致を見ていたが、7 党1会派にわたる連立政 権の最大与党である社会 党が猛烈に反発、閣内の 武村正義官房長官(自民 離党の新党さきがけ代表) も反対した。2月の首脳
は窮余の策として、首脳 会談を8日後に控えた2 月3日、午前1時という 異例の時刻に会見を開い て、3年後には消費税を 廃止し、福祉を目的とす る7%の「国民福祉税」を 新設する構想を発表する。 ところがこの構想は、 閣議はおろか、官房長官 や厚生大臣にも知らせて おらず、細川私案とも言 えるものだった。政権内 外からの反発が噴き出し、 4日の連立与党代表者会 議で撤回に追い込まれた。 直後の日米首脳会談は、 経済問題の包括合意で決 裂、細川の求心力は急速 に失われて行き、4月8 日には退陣を表明する羽 目となる。
月にも起きた。
の略称で知ら れる「アジア太平洋経済協 力会議」――これは東南ア ジア諸国連合 が開いていた拡大外相会 議の成果に触発されたオ ーストラリアのボブ・ホー ク首相(当時)が、太平洋 を囲む諸国による効率の 高い経済協力に向けた国 際的フォーラムを創設する 考えで、 年 月に首都 キャンベラに 6 ヵ国(当時の全加盟国)と 日米加豪韓 の ヵ国 の外務、経済担当閣僚を 集めて開いたのが始まり だった。
この会議で と いう機構の創設と、事務 局をシンガポールに常設 することが決まった。翌年 以降もシンガポール、ソ ウル、バンコクの順に開催 され、3年目の 年には 中国、香港、台湾にも参 加を広げた。「国家」だけ でなく、香港、台湾とい う「地域」にも参加の枠を 広げたのが新しかった。実 務的なことを具体的に話 し合う場としては、閣僚 級会合が適切という了解 があったのだが、クリント
「economy stupid」のブ ッシュ批判で大統領選に
9月の国連総会出席に次 ぐ外交舞台......という興 味があって出かけることに した。 会場になったのはワシン トン州シアトルから直線 で西に キロほどのブレイ ク島という小さな島。州 立海洋公園に指定され、 北西海岸の先住民の文化 や芸術に関するショーケー スとしてのヴィレッジがある。
首脳会合後の記者会見 でも、官僚の書いた原稿 をたどたどしく読み上げ る歴代首相とは一味違って いた。 「会議には議題が3つ ありまして、 世紀に向 けたアジア太平洋地域の 挑戦と機会、メンバー各 国が取り組むべき優先課 題、目標達成への手段― ―でしたが、これらを一体 として議論しました...... 私からは、アジアに位置 する先進民主主義国と しての立場と、昨日当地
貿易に関する一般協定、 現在は世界貿易機関)と の整合性確保、開かれた 地域協力を追求し域外と も一層の意思疎通を図る ことなどを強調しました。 我が国の取り組むべき課 題としては、インフラ整 備,人材育成、エネルギー、 環境といった問題を克服し ていく必要性を説明しま した」。 また、「クリントン大統 領とは、日米両国がそれ ぞれ、政治改革、NAF TA(北米自由貿易協定) という主要な政治課題に 前進が見られたことを弾
Untitled,(Detail 78)
カジュアルなジャケットに毛 糸のスカーフを無造作に首 に巻いた行動的な服装で 会議に臨み、ダークスーツ
会談の結果を踏まえて、 での協力のあり 方を、多様性の尊重と協 力の漸新的推進、交渉で はなく協議を通じた共通 認識と共通目標の追求・ 形成、GATT(関税と
みとして、両国間のパー 会談では、日米の経済貿 トナーシップをさらに強化 易摩擦を一挙に解決する させようという意欲に溢 ため米側が提案していた れた会談を行うことがで 「包括協議」の合意を図る きました。明年2月にも ことも決まっており、細川
を認識しつつアジア太平洋 経済の地域社会の一つの姿 を描いている。開放性とパ ートナーシップを深めるこ とで、急速に変化する地 域及び世界経済の挑戦に 対し、協力的解決方法を 見出して行くことが可能 となる」として、活力ある 経済成長の持続、貿易と 投資に対する障壁の削減、 ヒトやモノの迅速かつ効 率的移動の促進、より安 全な未来に向け空気・水・ 緑地の質を保全し、再生 可能な資源を管理して環 境を改善......などの実現 に向けた可能性を列挙し た。 クリントンは意図した 実績が挙げられたと例に よって大袈裟に自賛した が、2年後の 年大阪で の首脳会合には出席しな かった。シアトルで見せた 熱意は仮初のものに過ぎ なかったのか、経済も外交 も自分の都合しだい、ク リントンというのはそうい う政治家であった。 私事にわたるが、シア トル滞在中に父の危篤入 院の知らせを受けた。近 傍のカナダ・ヴァンクーバ ーからの直行便の時刻を 調べはしたが一時帰国はせ ず、ニューヨークに帰った後、 死去の連絡を受けて葬儀 に駆けつけることとなった。
国際ジャーナリスト 内田 忠男
勝利したクリントンとし ては、「経済通」のイメー ジを実績で広げたい...... 策を巡らせるうち、成長 力の高さで注目を集め始 めた環太平洋諸国の経済 協力を拡大しようという
に飛びついたの であろう。大統領就任の 年にアメリカが議長国に なっていた巡り合わせにも
恵まれ「、 サミット」 警備の関係から私たち取 の創始者となることを発 材陣は、シアトル市内に 案し、閣僚会議の直後に、 設けられたプレスセンター
非公式の首脳会合を開く ことを提案したのである。 メキシコとパプアニュー ギニアにも参加を促し、 この年から参加国と地域 は に増えた。首脳会合 については、アメリカの 提案であればと、各国が 出席に応じ、定例化で合 意した。ついでに言えば、 翌 年からはチリ、 年 にはロシア、ペルー、ベト ナムが加わって の国と地 域が参加する現在の規模 となる。 私としては、クリント ンのヌメヌメした自己顕 示欲丸出しの政略には辟
が仕事場になった。
細川首相は、厚めだが に到着後の各国首脳との
に話を戻せば、 首脳会合で「 首 脳の経済展望に関する声 明」が採択された。
「 世紀を迎える準備を するにあたり、世界人口 の4割、 の5割を 占める我々の活力あふれ る地域は、世界経済に重 要な役割を果たし、経済 成長と貿易拡大の道を率 先して行く」と大上段に振 りかぶった上で、「我々は 経済的相互関係と多様性
(一部敬称略、つづく)