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中東和平の歴史的握手 オスロ合意を横取り
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1993 年 9 月 13 日、ホワイトハウスで「パレスチナ暫定自治協定」が成立した瞬間 (左から)ラビン首相、クリントン大統領、アラファト議長
Yitzhak Rabin, Bill Clinton and Yasser Arafat at the Oslo Accords signing ceremony
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on 13 September 1993. (Photo public domain)
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 1993年9月 日の ことだった。  ホワイトハウスからの 中継映像に、イスラエル のイツハク・ラビン首相 とパレスティナ解放機構
よる自治を認める。その 5年間に、国境線の画定、 エルサレムの帰属、難民 問題など、いわゆる最終 地位交渉を完結する
としたことにアラブ側が 強く反発した。  第2次大戦中、ナチス・ ドイツの大虐殺にあったユ ダヤ人だが、ユダヤ人に 対する差別は、遠く1世 紀にローマ帝国との戦いに 敗れた結果、父祖伝来の 土地を追われて離散と放 浪を余儀なくされ、やが
の尊重、難民問題の解決 ......などを義務付けたが、 イスラエルはこれを完全に 無視黙殺した。 年のエ ジプトとの平和条約でシ ナイ半島の返還に応じた 以外は、 年にゴラン高 原の併合を宣言、 年に はヨルダンにヨルダン川西 岸の統治権放棄を宣言さ せるなど、国連憲章が禁 止する武力による領土の 拡張を実現していた。  パレスティナに和平をも たらそうと行動を起こし たのは、クリントン政権 の前、ブッシュ(父)政権で 国務長官を務めたジェーム ス・ベイカーだった。  冷戦終結後の新しい 世界秩序の構築にあた り、中東和平の実現が喫 緊の課題とされた。ベイ カーは、 年5月、米イ スラエル公共問題委員会
した。
 会議では、パレスティ
ナの和平実現に向け、2
当事者または多国間の協
議を始めることで合意は のスピーチを読み返すと、 したが、具体策は決まら 例によって自分の知識をひ なかった。アメリカとと けらかすように中東和平 もに仲介役を果たそうと の歴史をクドクドと述べ
のヤーセル・アラ ファト議長が歴史的な握 手をし、その間に立って
というもので、両者の
秘密対話の開始から合意
にこぎつけるまで、ノール
ウエイ政府が独自に並々
ならぬ力を尽くしたもの
であった。つまり、この「歴 て欧州各地に定住した頃
史的握手」はノールウエイ から様々な形で続いてき
政府の功績であって、クリ た。 世紀には、ロシア (193)の3分の1にも ントンがアメリカの大統 帝国がナチス同様の虐殺 満たなかった時期の決議に 領として何をしたわけで の挙に出たこともあって、 は、これら欧州有力国の
したソ連は、その年の末、
国家としての存在を消滅
した。
 こうした状況を見て密
かに動き出したのがノー
ルウエイだった。ユダヤ人
差別の実績はなく、北海 ではない。核兵器拡散防 油田が開発されたために 止条約 には頭から アラブ産油諸国とも対立 参加せず、自ら核武装し 関係はない。その立場を ているし、総会決議が国 生かして密かに仲介役に 際管理としたエルサレムを 乗り出したのだった。「火 「永久の首都」としている。 中の栗を拾う」行為だけ アラブ人の土地であるべ に、初めはイスラエル、 きヨルダン川西岸にもユ
きた(今も流し続けている)
 パレスティナ問題は、第 オニズム運動」が起きて 2次大戦直後のユダヤ人 いた。 国家イスラエルの建国時  とはいえ、2千年近く 点から今日に至るまで、
イスラエルと の間で 「パレスティナ暫定自治政 府に関する原則を記した 宣言」に署名がなされた瞬
アラブ世界との間で激し い対立の根幹となってきた。  1947年 月、国連 総会は「パレスティナ分割 決議」を採択した。第1 次大戦後にオスマントルコ の領地からイギリスの委 任統治となっていたパレス ティナの土地をユダヤ人と アラブ人の2つの新しい国 家に分け、エルサレムだ けは国際管理下に置くと したものだが、土地の分 配率をユダヤ国家 ・5 %、アラブ国家 ・5%
両当事者に警戒 ダヤ人の入植地を建設し 感が強かったが、粘り強 ている。アメリカはじめ い呼びかけで交渉のテー 国際社会は核武装を止め ブルを作ることに成功、 ようともせず、トランプ
間だった。  この宣言は、「オスロ合 意」の名でも歴史に記録さ れているように、ノールウ エイ外務省の仲介で難し い秘密の交渉が続けられ た結果生まれたものだった。 要約すれば 1イスラエルを国家として、
で行った演説 で、イスラエルに入植地 を拡大する拡張政策の放 棄を呼びかけたのを皮切 りに、クウェートに侵攻し たイラク軍を追い払った湾 岸戦争後の 年には、中 東地域を往復するシャトル
さらに粘り腰で交渉をリ ードしていった。 年8月 になって、 アラファ ト議長はイスラエルの国 家承認と暴力の排除に合 意、イスラエルもシモン・ ペレス外相が をア ラブ人側の代表として認 め、ガザ地区とヨルダン 川西岸の一定地域で暫定 自治を認めることにも合 意。同月 日、ついに覚
政権に至っては大使館を エルサレムに移転してイ スラエル政府に迎合した。 こうしたイスラエルの拡 張政策と、それに対する 大国の不公平な振る舞い こそがアラブ人たちに不 満を植え付け、和平の障 害となっているのは間違い ない。
をパレスティナの自 治政府として相互に承認 
外交を8回にわたって行い、 新思考外交を表明してい たゴルバチョフのソ連とも はかって、同年 月末にマ ドリッドにイスラエル、シ
2イスラエルは占領地域 から軍隊を暫定的に撤退、 5年にわたり自治政府に
 (一部敬称略、つづく)
Untitled,(Detail 77)
も留守にしていたユダヤ 人たちに故郷の地も決し て優しくはなかった。国連 決議の時点でユダヤ人が 入植できたパレスティナの 面積は7%に過ぎなかった とされる。そのユダヤ人 に過半の領地を与えると いう国連決議が採択され た裏には、長きにわたって ユダヤ人を差別してきた 欧州の有力な国々の原罪 意識があったとする見方が 多い。国連創設からまだ 日が浅く、加盟国も第2 次大戦の戦勝国だけで現在
ラブ諸国との間で第1次 中東戦争が起きたが、建 国の意欲に燃え、欧米諸 国から強力な支援を受け たイスラエル軍の敵ではな かった。戦争はその後も、 世界中を第1次石油危機 に巻き込んだ 年 月の 戦いまで4度にわたって勃 発したが、 年6月の第 3次中東戦争では、イス ラエル軍がわずか6日の間 に、エジプトからガザ地 区とシナイ半島全域、ヨ ルダンから東エルサレムと ヨルダン川西岸全域、シ リアからゴラン高原...... という広大な領地を奪って 占領した。  さすがに見かねた国際 社会が、国連安保理で 242決議を全会一致採 択、占領地からの完全撤 退に加え、域内諸国の主 権・領土の保全と政治的
独立、武力による威嚇や リア、レバノン、ヨルダン、 書の仮調印にこぎつけた 行使を受けることなく安 パレスティナの代表を招い のだった。この間、アメリ
国際ジャーナリスト 内田 忠男
全かつ平和に暮らす権利 て「中東和平会議」を開催
カが交渉に介入、もしく は積極支援した形跡は全 くなかった。  ワシントンでの“横取 り署名式”でのクリントン
手柄顔とでも言おうか、
誇らしげな笑顔で二人に
話しかけるクリントン大
統領の姿が映し出された。
見ていた私はムシズが走
るような不快感を覚えた
のであった。
 長く対決を続け、おび
ただしい量の血を流して たのであった。 ンの丘に帰ろうという「シ
たうえ、ブッシュ前大統領 とノールウエイ政府の功 績には短か過ぎる敬意を 表しただけだった。  イスラエルの国連軽視 は242決議の無視だけ
もない。署名式の開催と それ以降、民族発祥の地 いう形で手柄を横取りし であるパレスティナのシオ
意思が強く反映されたの だった。  決議を受けて、翌 年 5月にユダヤ人だけがイ スラエルの建国を一方的に 宣言、それに反発するア












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