Page 11 - Yomitime445
P. 11

[ 11 ] 05/12/2023
YOMITIME・WWW.YOMITIME.COM・info@yomitime.com・
  37
47
再びニューヨーク赴任 現実無視の不景気ムード
91
53
AP
H W
90
88
ビル・クリントン大統領とその内閣(1993 年)
The Clinton administration in the Cabinet Room / 1993 (Photo public domain)
11
N AB CB C
AB C
1 5
41
15 45
53
10
13
92
92
76
11
68
70
46
  テレビ朝日のネットワー クニューズのアンカーをして いて常に胸中に去来して いたのは「こんなはずでは なかった」という思いだった。  取材の現場に出ること がほとんどなく、他人が 書いた原稿を読まされる 作業が大半。ジャーナリ ストとして磨き続けてき たはずの好奇心や探究心 に曇りが生じていると感 じていた。局の幹部から
るリポーター・アンカー、 日本語的には「国際問題 専任キャスター」という職 名で再び太平洋を渡る。 赴任にあたっては桑田弘一 郎社長と早河氏がニューヨ ークまで私たち夫婦に同 行して下さった。契約タ レントの身には異例の厚 遇だった。  4年半ぶりのニューヨー クで、まず変わっていたの は、テレビ朝日のニューヨ ーク支局が、ロックフェラ ーセンターの ビルか ら3番街 丁目に引っ越 していたこと。街並みは というと、相変わらず雑 然混沌としていて、 年 3月に底を打った景気後 退の影響もまだ残ってお り、往時の活気に欠ける 感じがした。  まず住み家を決めなけ ればならない。国連本部 に近い 丁目と2番街の
内装などにも不満はあった が、支局をはじめミッドタ ウン各所への地の利の良 さが決め手だった。賃料 は月3500ドル。この 家賃は、その後、契約更 新の都度上がって、 年 後に出る頃には5000 ドルになっていた。
 当時はまだ 歳。 プロムプター上に「Please
が、その後ずっと付きま とうことになる。  クリントンの指名演説 が災いしたわけでもなか ろうが、その年の選挙は 共和党ブッシュ候補の圧勝 に終わる。それより4年 前、レーガン大統領が再 選に臨んだ選挙で、民主 党のウオルター・モンデ ール(カーター政権の副大 統領、のち駐日大使)が、 出身地のミネソタ州と首 都ワシントンを取っただけ で獲得選挙人 という最 悪の敗北を喫したよりは
「どうですか」と聞かれ るたびに、「現場に出たい」
 「EconomyStupid」―― に帰国する前の 年7月 ヵ月間続いた好景気が にアトランタで開かれた
周辺には「disaster=災難 →最悪」という誹りが広
Untitled,(Detail 76)
ていたビル・クリントン 前述したように選挙の年 が選ばれたからだ。伝統 の3月に底入れして、 的に民主党が強い北東部 月の投票日までには成長 と太平洋岸諸州に加え、 軌道を回復していたのだ ミネソタからルイジアナ が、クリントン流のまこ に至る中西部を南北に縦 としやかなレトリックと口 断するベルトで共和党が 数の多さが覆い隠してし 敗北していた。 まった。そうした現実無   歳のブッシュに対して 視の不景気ムードが、私 クリントンは 歳、若さ が戻った選挙翌年のニュー はあっても、さほどキラ ヨークにも影を落として キラした印象ではなかった いたのだった。
サチューセッツ州のマイケル・
デュカキス知事を大統領候
補に、副大統領候補には
ロイド・ベンツェン上院議
員(テキサス州)を指名し
たのだが、クリントンは、 み出してしまうし、盛り
そのデュカキス指名を推薦 上がった場内の興奮にも
する演説で登壇した。 水をさすと考えて、テレ 一辺倒の男」という評価
「タマが飛んでくるとこ
ろで仕事がしたい」と答
えることが多くなった。
 番組の視聴率が伸び悩
んでいたこともあって、「内
田さんはやはり外国にい
てもらった方が良いかも
知れませんね。外国とい
えばニューヨークでしょう」
――報道センター長とし
て、私を間近に見ていた
早河洋・現会長が決断を コーナーに建つ初代事務総
ブッシュ政権半ばの 年夏 民主党全国大会だった。 から後退に転じたことが、 2期8年続いたレーガン クリントンの攻めの材料 政権の後の政権を決める になった。現実には後退 大統領選挙の年で、政権 局面は8ヵ月間に過ぎず、 奪還を期した民主党はマ
れる。場内にはすでに「We want Mike」の歓声が渦巻 き、大会のクライマックス
がる。ジム・ライト下院
議長(テキサス州選出)は、
壇上のクリントンに向け
て「ノドを切るぞ」という
仕草をして終わらせよう
としたが、それでもやめ
なかった。与えられた マシだったが、デュカキス
下してくれた。丸2年、 1993年3月末でアン カーを辞し、渡米の準備 に入る。『内田忠男モーニ ングショー』を含めると4 年半の東京暮らしだった。  4月の終わりだったか、 ニューヨーク支局に駐在し ながら、世界の各地に出 かけて国際情勢全般を見
長ダグ・ハマーショルドの 名のついたコンドミニアム、
ュカキス知事が州政で行 った社会福祉改革、財政 均衡の実績などをクドク ドと列挙した。聴衆の感 動を呼ぶには程遠い、た だただ冗漫で退屈な演説 を延々と続けた。私は現 場の記者席でこれを聞い ていたので、後になって聞
で応えた。  だいぶ後になって、「あ れは私の人生で最悪の時 間だった」というクリント ン自身の反省の弁を聞い たが、党大会直後のニュ ーズウイーク誌は「常識に 照らせば、クリントンの 政治家生命はこれで終わ りだ」と書いたし、地元 アーカンソー州の新聞ガゼ
 しかし、その4年後の 選挙では、クリントン自 身が出馬して民主党の指 名を獲得、本選挙でも現 職を破って当選してしまっ たのだから、政治という のはわからない。ただ、 私がニューヨークに戻った 数ヵ月後、クリントン大 統領は、私が観察した通 りの行動に出る。
国際ジャーナリスト 内田 忠男
た。デュカキス陣営のスタ ッフも、これではロール・ コールが遅れてプライム・ タイムの放送時間からは
失敗」と酷評した。  もちろん、私の印象が 良かったはずがない。「他 人の迷惑を顧みない、他 人の功績を我がことのよ うに喧伝する自己顕示欲
階の2寝室2・5浴室の 部屋に決めた。東向きで イーストリバーを挟んでロ ングアイランド・シティと クイーンズの展望が広がる が、景色などは1週間も 眺めていれば飽きるので、 あまり問題にしなかった。
かされたのだが、
も も途中で演説の
ッタでさえ「unmitigated
(一部敬称略、つづく)
◇  私が留守にしていた間 にアメリカの大統領が代 わった。 年以来、欠か さず現場で見てきた大統 領選を 年だけ見られな かった。その選挙で再選 を目指した共和党のジョ ージ・ ・ ・ブッシュ(父 親の方)が敗れ、南部ア ーカンソー州で知事をし
のだが、 年代の自信喪  私は、このクリントン 失から国を救ったロナル という政治家が好きにな ド・レーガン以来の保守 れなかった。 派統治が飽きられた面も  クリントンを私が初め あっただろう。 てみたのは、前回、日本
ニューズのアンカ ー、ピーター・ジェニング スが「聡明で能力に溢れ た若き政治家」とベタ褒 めしていたが、演説は酷 かった。指名演説という のは、正式指名に至るロ ール・コール(各州がそれ ぞれの指名候補を公表す る手続き)を前に、 分 程度でデュカキスという人 物の利点・長所を簡潔明 快に述べるのが使命とさ
finish=終わりなさい」と 表示したが、自分の演説 に酔い痴れていたクリン トンは見ていなかった。原 稿も見ずに異例の長広舌 を続けていたからだった。  場内で聞いていた私の
に導こうとしていた。  壇上に上がったクリン トンは、そうした歓声を 制止しながら、レーガノ ミクス批判に始まって、デ
分間を倍以上過ぎて、ク
リントンが「最後に......」
と言うのを聞いて、聴衆
はようやくまばらな拍手 ・7%という惨敗だった。
中継をカットしたほどだっ disaster=紛れもない大
の獲得州は 州と首都ワ シントンだけ、得票率も ブッシュの ・4%に対し







   8   9   10   11   12