Page 11 - Yomitime433
P. 11

[ 11 ] 10/28/2022 YOMITIME・WWW.YOMITIME.COM・info@yomitime.com・
  早坂茂三・著『駕籠に乗る人 担ぐ人―自民党裏面史に学ぶ』(祥伝社)と 『オヤジとわたし 頂点をきわめた男の物語』(集英社)
88 87
72
10
62 10 10
11
91
82
87
20
85
27
50
91
 85 23
Untitled,(Detail 65)
1955年のことで、入
社年次の比較では私の7
年先輩にあたる。読売
時代に私が尊敬してやま
なかった本田靖春氏と同
期で、本田氏とは新聞
学科でも親しかったと聞
かされた。さらに、私
自身の大学受験で、正
確に 人しか採らなかっ
た早稲田の新聞学科も
受かっていたが、慶應義
塾(経済学部)に合格し
たので入学しなかったこ
となど、会話も弾んで
早坂氏はモーニングショ
ーへの出演を承諾してく
れた。
 早坂コーナーでは、過
去から現在に至る政治
家の素顔を歯に衣着せぬ
言葉で紡ぎだす面白さ
がうけて、滑り出しか
ら好調だった。
 そもそも田中角栄氏
にどう口説かれて秘書
になったか―― 年
月、池田勇人内閣の大
蔵大臣で入閣した田中
氏に呼ばれ、「オレは 遜が三つ揃い着て闊歩し
年経ったら天下を取る。 ている、なんて書きやが
一緒にやらないか。大 った」と回想していた。
博打だけれども命まで  政治家本人を早坂さ
取られることはない。キ んの声掛けで番組に招く
ミに赤旗を振っていた時 ことも少なくなかった。 かなくては、と思い、そ
 テレビ朝日で、モーニ
ングショーと湾岸戦争を
伝える報道特別番組に
忙しく出演していた ームのソファに座らせると、
年1月の終わり、情報
局長に呼ばれた。モーニ
ングショーは情報局所管
の番組だった。
 「内田さん、4月から
夕方のニュースをやって下
さい」と言う。かぶせる
ように「特番のさばき(運
営)を見ていて、報道局
から内田さんを戻してほ
しいと要望がきた。夕
方の全国向けネットワー
クニュースをやってもらう、 も知れない。 と言うんです。内田さん  「内田さんに来てもら は、やっぱり報道が似合 って2年経って、これから、 うんだよなァ」ーー情報 と言う時ですよ。だか 局長の表情には、視聴 らこそ、今年初めから、 率を取りやすい芸能ネタ 特番などで忙しい合間 に関心が薄く、キャンペ を縫って、内田さんには ーン色の強い硬派ネタを 花王(メインのスポンサ やりたがる私がいない方 ーだった)への挨拶に同行 がスッキリするーー情報 をお願いしたり、番組の 局として歓迎の感情があ 芯になる企画を充実させ るようにも感じられた。 ようと色々考えていた。  「会社として決まった 早坂コーナーなども売り ことですか」と問い返すと、 物にしてね......その矢先
「ええ、決まったことで ですよ」――私には、応 す」の答え。であれば是 ずる言葉がなかった。 非もない。「わかりました」  「早坂コーナー」という と答えた。 のは、政治評論家の早  モーニングショーの部屋 坂茂三氏を招いて前年 に戻ると、伊駒政美プロ 秋から始めた。その少し デューサーが真っ赤な顔を 前に伊駒氏から「早坂さ
代があったことは知って  断られ続けた竹下登氏 いるが、そんなことは (元首相)を、最後はど
の経緯を質すと、竹下 氏は「派中派などと書か れましたが、あくまで勉 強会を作ったわけでござ
国際ジャーナリスト 内田 忠男 『オヤジとわたし 頂点 をきわめた男の物語』(集
と迫られ、その場で決 断したという。田中氏 は約束通り、 年後の
を刺された。男性の上 履きパンツの前についた ファスナーを「チャック」と 呼ぶ習慣があって、チャッ クは「閉めておく」、つま り「聞いてはならない」の 意だった。  竹下氏は、田中派の 創設メンバーで、田中内 閣では最後の官房長官 を務めるなど、田中氏
して待ち構えていた。黙 んに出てもらうこと、内 英社)『、政治家田中角栄』 って私の肩を押し、ひと 田さんはどう思います?」 (中央公論社)の2冊を 気のないメイクアップル と聞かれ、芸能界のスキ 立て続けに出し、 年に ャンダルを騒ぎ立てるコ は『駕籠に乗る人 担ぐ ーナーにいささかうんざ 人―自民党裏面史に学 りしていた私としては一 ぶ』(祥伝社)がベストセ
年7月、内閣総理大
臣になった。
 その田中氏は、月刊
文藝春秋に載った立花
隆論文を火付け役とす
る金権批判で、2年半
足らずで首相を辞任、
さらに2年半後にはロッ
キード事件で逮捕され の最側近とされてきた
その横で顔を覆って男泣
きを始めた。「会社って、
こんなに勝手なものです
かね」と切れ切れに言う。
ニューヨークにいた私に目
をつけ、反対の声も多か
ったであろう周囲を説得
して私の起用を実現し
た伊駒氏が、そのことに
賭けていた勝負への気概、
その重さを、迂闊なが 年間も務めた政界裏 (政経学部)時代に共産 ら私は軽く見ていたのか
も二もなく賛同した。「お ラーになっていた。 願いする場に同席して下  田中氏の秘書になるま さい」と言われ、紀尾井 で東京タイムズの政治部 町の料亭、福田家に早 記者だったことは知って 坂氏を招いた。 いたが、この時の会話で、  早坂氏といえば、「今 読売新聞の入社試験の 太閤」と囃された田中角 最終面接まで残っていた 栄元首相の政務秘書を のが、早稲田の新聞学科
る。そうした間も、早
坂さんは田中氏の復権
を信じてひたすら寄り
添った。田中氏は刑事
被告人としての公判中 日後の同月 日に脳 も語らない。初対面に近
面史の大御所的存在で、 党に入党していた前歴で 年2月に田中氏が脳 ハネられたことを知った。
も、選挙の都度無類の 強さで再選を重ねた上、 自民党のキングメーカー として隠然たる力を発 揮、 年には中曽根康 弘氏を首班に押し上げ、
梗塞で倒れる因になった、 い私ごときが、いかに策 とする説がもっぱらだっ をめぐらせても、限られ た。創政会は、 年5 た時間の中で崩せるもの 月、「経世会」として正 ではなかった。「あしら 式に派閥となり、竹下 われたな」――時間が来 派と呼ばれることになっ て竹下氏をスタジオから た。141人いた田中 送り出した後には、無 派のうち118人が参 力感と悔恨だけが残った。 加、竹下氏は党内最大 「ウッチャン、よくやったよ」 派閥の領袖となって、同 と言う早坂さんの労いに 年 月、「中曽根裁定」 も、応える気力が失せて
梗塞で倒れた直後に秘 書の任を解かれ、 年に
どうでもいい。どうだ」 ャックだよ」と事前に釘
いませんでした」  「私どもとしては、国 を良くするために政治が 何をすべきか、常に研鑽 を積んでおかなくてはい けません。そこには限度 などないわけでございま す。ですから創政会も 政策の勉強をトコトンす る、勉強するには普段 から近場にいる政治家た ちが緊密に話し合いなが らやって行く、そういう 気持ちで組織したわけで
政界裏面史の大御所招く 「早坂コーナー」好評
う口説いたのか、とにか
く出演に漕ぎつけた。早
坂さんからは「内田さん、 いまして、田中さんに弓 リクルートの件だけはチ を引く気など毛頭ござ
った私自身の分別の甘さ に今更ながら忸怩たる 思いが広がる。
「田中曾根内閣」の異名 もとった。  この時代、田中氏の陰 で見え隠れする早坂さ んを週刊誌が、「傲岸不
が、 年2月7日、勉
強会と称する「創政会」 ございます」 を田中派内に作った。こ  丁寧な言い回しで言葉 れが田中氏を激怒させ、 の数は多いが、本心は何
により総理総裁の座に 登り詰める。  リクルートについては 聞けなくとも、創政会 結成については聞いてお
いた。
  年3月末、『内田忠 男モーニングショー』は2 年半で終わった。  伊駒氏の大きな期待 に応えることもなく、社 命と聞いて報道への転籍 をあっさり承諾してしま
(つづく)
   8   9   10   11   12