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「ベルリンの壁」崩壊後の 新しい東欧諸国を見聞
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ればいけないーー強迫観 念のようなものもあって、 取るものもとりあえずと いう形で、出発と帰国 の日以外、日程も定か でない旅に出たのだった。 まずイギリス。 「鉄の女」と言われたサ
りに、この国家の国際社 会に対する責任の取り方 を見た。国民もそうし た政策を歓迎する。サッ チャー首相の支持率回復 は、「強力な大英帝国に 相応しい政策」のおかげ だった。「斜陽の老大国」 などとバカにしたもので はない、と思った。 ロンドンからオースト リアのウイーンに飛ぶ。 九州の2倍半しかな
純白のレースのカーテン、 屋根には銀色に輝くテレ ビのアンテナが突き出て
りの収穫を持ち込んだ 東西に分裂していた。東
農民、西側から安物の 西を分ける「壁」はわず
雑貨、衣類、電気製品 かに跡形を残すまでにな
などを買い込んで店を広 っていたが、格差は歴然
げた都市住民......経済 としていた。それを象徴
活動が自由になったから するのが東独製のトラバ
思い思いに勝手なことを ントという小型乗用車。 った。東側の平均世帯
ッチャー首相が就任から 年目を迎えていたが、
思えない姿があった。 市場経済は自由で公 正な競争の社会である。 その前提として、生産 段階での分業もあれば、 市場開発から流通・販 売に至るさまざまなステ
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翻した最初の国である。 月にはブダペスト証券取 1956年 月、学生・ 引所が業務を開始、資 労働者らによる反ソ連、 本主義市場経済が動き
に加盟しながら、 準は、(私と最初に会っ オルバン・ヴィクトル首 た)9年前より確実に低 相が親プーチンの強権政 下している。今のポーラ 策を進めている。東欧革 ンドには金持ちと貧乏 命の先駆けとなった姿と 人だけ、中流がいないん
製品が溢れているが、値 段が高くて手が出ない。 仕事を失う人も増えた し......」と嘆く。東独は 工業生産の効率が高いこ とではソ連・東欧圏の優 等生だったが、「西には 敵わない」という。東独 製品の多くは競争力を 失い、工場も操業停止、 倒産に追い込まれ、労 働者に一時帰休や解雇を 通告せざるを得なくなっ た。 精強を誇った東独人 民軍も、 万の兵力が
話は前後するが、湾
岸戦争に向けて人的貢
献を求められ、海部俊
樹首相が対応に苦慮して
いた最中の 年9月に、
遅めの夏休みが取れて欧
州への一人旅に出た。前
年は東欧諸国の社会主
義支配がドミノ倒しとな
っていたのに、その現場
が見られなかった。ベル の日本円にして260億 リンの壁崩壊という大事 円、以後1日5・5億円 件さえ、遠目に映像を の出費を強いられるとい 見ているしかなかった。 う。インフレ下の景気後 早いうちに新しい東欧 退感が強まる中、楽な をこの目で見ておかなけ ことではないが、この辺
始めていた。
ただ、首都ブダペスト
の表情には少しばかり失
望させられた。社会主
義統治下にあっても、「ド
ナウの真珠」とか「ドナ
ウのバラ」と呼ばれる美
しい都市だったが、目抜
き通りは薄汚く騒々し
くなっていた。徘徊する
若者たちにも退廃的な
空気が漂う。ここに来る
車窓から見た農村地帯
が実に美しく整備され、 末な露店が目立った。覗 のは、この年 月3日の 万弱に減り、そのう
到着した日に発表され
た8月の消費者物価指
数が ・6%と8年ぶ
りの2桁。さしものサッ い小国だが、7つの国と チャー人気も急速に下火 国境を接し、1955 になっていたが、旧知の 年に国家主権を回復し イギリス人ジャーナリス た際、永世中立を宣言 トに聞くと、「人気は盛 していた。けれども軍隊 り返しつつある」という。 はある。 〜 歳までの 同じ日、英下院はクウ 男子には兵役の義務があ ェートに侵攻したイラク り、千人近い将兵をキプ に対する経済制裁を強 ロスなどの国連平和維持
ップがある。規模の利益 も追求する。各個人が まちまちのひとり相撲を 取っていたのでは大きな
国際ジャーナリスト 内田 忠男
反社会主義のデモが広が
り、穏健派とされたイ
ムレ・ナジ首相がワルシ
ャワ条約機構からの脱退
と中立を宣言するとこ
ろまで進んだが、侵攻
してきたソ連軍戦車に圧
殺された歴史を持つ。そ
の後は、表向きソ連に忠
誠を示しながら国内改
革を少しずつ進める面従
腹背で、隠忍の時代を
過ごしてきた。だから、
ソ連にゴルバチョフ書記
長が出現して「新思考外
交」を標榜しても、慎重
に成り行きを注視しな
がら、東欧圏では真っ先
に複数政党制を採用す いたのとは、対照的なく る国となった。 年1月 すんだ光景だった。この のことであった。 年6 時から 年余経った今、
化する法案を圧倒的多 数で可決していた。制裁 に違反した企業には上 限なしの罰金か、責任 者に7年以下の懲役刑 を科すという。そのうえ、 1週間後には6千人の 地上兵力を湾岸地域に 派遣することも決めた。 派遣当初だけで、当時
軍に派遣もしていた。中 東危機に際し、キメ細 かな情勢分析や論議抜 きで自衛隊派遣など頭 から問題外とする日本 人の「平和ボケ」が、国 際社会では「横着を決め 込む国」と思われるのも ムベなるかなと感じたも のだった。 ウイーンには、シェーン ブルンはじめいくつかの 宮殿、シュテファン大聖堂、 国立歌劇場など見るべき ものが多々あるが、それ に背を向けて、車を雇い ハンガリーのブダペスト に向かった。 ハンガリーは、東欧諸 国の中で、ソ連に反旗を
は逆の道を歩んでいるよ
うに見える。
ポーランドに飛ぶ。
社会主義統治下にあ ズローチだったのが、この
って自主管理の労組「連 時は9500ズローチ、 帯」が結成されて政府と 300倍近い落差になっ 渡り合っていた 年以来、 ていた。 8年ぶりの訪問だった。 旅の最後はベルリン。 が、ここでも落胆が待っ 分断していた東西ドイ ていた。 ツが再統一(と言っても、 ワルシャワの街には粗 西が東を吸収合併)した
点在する農家の窓には いてみると、わずかばか ことで、まだベルリンは
ち当初7万人を見込ん だ統一軍への編入も5万 人に減らされた。東独 軍人3人に2人以上が 確実に失業する。 ただ、人々が嘆くほ ど状況は深刻ではなか
すれば良いと、市場原 古典的な2ストローク・ 理を誤解しているとしか エンジンで、エンジンオ
所得は1200マルク、 当時の邦貨換算では約 万円で西側に比べれば 劣っていたが、5万円に も満たないポーランドな ど他の東欧諸国に比べれ ば遥かに高い。西独とい う強い“兄貴 が、東独 の社会基盤整備に合併 後の1両年で 兆円近
です」。通貨の交換比率 は 年5月の初入国時 に公定では1ドル=
イルをガソリンに混合給
油する方式のためか、青
白い排気ガスを撒き散ら
して走る。その匂いが街
全体に立ち込めているの
が東ベルリンだった。
7月に通貨が統合さ
れ、東西のドイツマルク
が等価で交換できたが、 くを投ずることにもなっ 東側では物価が急上昇 ていた。 した。東の人に聞くと、 「欧州で、ドイツがま 進歩などあり得ない。 「東西マルクの等価は、 た強くなる」――確信に 再会したポーランドの 西独コール首相の英断で 近い思いが浮かんだのだ
友人の表情は冴えなかっ 有難かったし、デパート った。 た。「一般市民の生活水 やスーパーに行けば西側 (つづく)