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(撮影 1991 年 5 月 / public domain)
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 「湾岸の夜明け作戦」での進出途中、真水・糧食・燃料の補給のため、
  スービック海軍基地(フィリピン)に立ち寄った旗艦「はやせ」
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C
 Show the flag, Boots
議を求めてきた貿易摩 擦に加え、マンハッタン のランドマークであるロッ クフェラーセンターを三菱 地所が、伝統と歴史に 包まれたコロンビア映画 をソニーが、それぞれ買 収。それ自体は真っ当な 商行為で責められる筋で はなかったが、米国内に は「日本人は傲慢だ」と 成り上がりの金満ぶり を非難する空気が強まっ ていた。  日本側の事情を言え ば、戦争を放棄し、「陸
 日本政府は進退窮ま っていた。イラクでは日 本人も欧米人と共に人 質に取られて拘束されて いた。救出するのは当 然だが、どこかの国にお んぶするしかない。 年 8月 日にまず1千万 ドルの資金提供を公表 すると、「その額面で何 ができるんだ」とアメリ
on the ground ! 「日の丸をつけた地上部
カネだけ出して済まそ
保持しない。国の交戦 権は認めない」と明記し た憲法9条があり、現 実として自衛隊を戦地 に派遣することはできな い。ブッシュ大統領からは、 輸送・補給面で支援要 請があり、自衛隊を出 せない日本としては、民 間船舶や航空機のチャー ターを検討したが、戦闘
への 億ドルの経済援助 あえなく廃案となった。 ツが 億ドルを支払った。 を決定した。まさに金  日本政府の対応は、 日本は、他に何もしなか 満国家の小切手外交だ。 小切手外交への逆戻りし ったわけではない。多国  自民党内では、剛腕
うとするcheckbook
diplomacy=小切手外 交はもういい加減にやめ
かない。開戦後の 年1
籍軍には4輪駆動車や ウオークマンはじめ、数 多くの日本製品を提供、 それぞれが高い評価を受 けたと言われている。  戦争が終わって、3 月 日付の米主要紙に、 クウェート政府による全 面広告が掲載され、 の国名をあげて支援に感 謝する言葉が述べられた が、135億ドル(邦貨 で約1兆8千億円)もの 支援資金を出した日本 の名はそこになかった。  「カネは出しても人は 出さない、血は流さな い」――国際社会で日本
Untitled,(Detail 63)
を磨きつつあった小沢一 月 日には特別立法で 郎幹事長が、「現行法下 億ドルの追加資金協 でも自衛隊を中東に派 力が決まり、湾岸戦争へ
という国家への形容詞が 固まりつつあった。国内 では、日本の行い得る国 際貢献は戦後処理とし ての機雷掃海作業にのみ 可能性がある、との判断 が生まれ、準備作業が 始まった。3月6日には、 ドイツ政府がアメリカと 国連の要請を受け、ペル シャ湾全域に敷設された 機雷除去のため海軍掃 海部隊を派遣すると発 表していた。
3050トン)に掃海艇 4隻と補給艦「ときわ」 からなる6隻511名 の派遣部隊は同 日出 港、6月5日から米海 軍の担当海域で作業開 始。7月 日までに 個の機雷を処分。この時 点で英仏独伊など西欧 同盟の掃海部隊は、国 連から付託された全海 域の作業が完了したと して帰国したが、ペルシ
わらせて各国海軍を驚 かせたことをはじめ、 度 を超す酷暑に加え、 砂漠から飛来する砂塵、 イラク軍の油田放火で 生じた煤煙などさまざ まな悪条件との戦いを隊 員たちが見事に乗り越 えたチームワーク、掃海 艇の機雷探知機が巨大 エイ、マンタを探知した ......などのエピソードを 話してくれた。共同作 業の多かった米中央海軍 の司令官や、欧州各国
隊を出してはどうか」―
―湾岸戦争が始まる前
の 年に、アメリカはこ
うした言葉を繰り返し
て、日本の国際貢献を
求めてきた。イラクのク
ウェート軍事侵攻から2
週間も経たない日本時
間8月 日早朝には、ブ
ッシュ(父)大統領が海部
俊樹首相へのホットライ
ンで日本の人的貢献を要
請。その前面には、「国
際的な危機に臨んで、 海空軍その他の戦力は
  月半ば、総理府に 「国連平和協力隊」を新 設し、そこに自衛隊員 も参加できるようにする 「国連平和協力法案」が カが強い不快感を示し、 国会に提出された。苦
ャ湾北部の水深の浅い海  4月 日、「ペルシャ 域が手付かずで残されて
たらどうか」という米側
の対日批判があり、前
年8月に発足した海部
政権には少なからず動
揺が走った。後に、民放
局持ち回りの『総理と語
る』という番組の当番が
テレビ朝日に回ってきて、 地域への派遣に手を上げ
私が海部氏と対談した際 「こっちにも手続きがあ るんだと押し返した」と 話してはいたが、当時の 苦悩が深かったことを隠
る企業はなかった。こう
した事情を説明する日
本側に、アメリカは、「ペ
ルシャ湾には日本の船舶
が多数いるではないか。
日本企業は自分の経済 小切手外交を変えた 利益のためにしか活動し
さなかった。  その背景として、バブ ル景気の絶頂にあった 年には、米側が構造協
ないのか」と、さらなる 自衛隊の大健闘 不満で応じた。
(つづく)
国際ジャーナリスト 内田 忠男
遣できる」と主張して首 相に決断を迫っていた。 海部首相は内閣官房と 外務省に法案作成を指 示したが、個人的には「自 衛隊の派遣は不可能」と 考えていた。
の協力金としては合わせ て130億ドル、さら に為替変動で目減りし たという5億ドルも追 加支出した。  多国籍軍部隊の %を占めたアメリカ は、連邦議会の計算で 611億ドルの戦費を 費やしたが、自国負 担は 億ドル。残りの 520億ドルのうち、 360億ドルをクウェー ト、サウジアラビアなど の湾岸諸国が負担、日
大蔵省は翌日、大慌て し紛れの法案だったが、
で100倍の 億ドルと 前年の参院選で自民党
いう数字を公表。9月 が過半数を失った「ねじ 本が110億ドル(他に
びその処理の実施に関す イラク両国から同海域で る海上自衛隊一般命令」 の掃海作業の同意を取
緊密な友情が生まれた 経緯についても詳しく語
日にも 億ドルの追加 れ国会」では成立の目処 紛争周辺3ヵ国への経済 資金協力と、周辺3ヵ国 が立たない。 月8日、 援助が 億ドル)、ドイ
が発令された。「湾岸の 夜明け作戦」と命名さ れ、指揮官に指名され たのは、第1掃海隊群 司令だった落合畯(おち あい・たおさ)一等海佐(の ち海将補)。 ――彼とは、東京教育 大学附属中・高校で同 期の仲だった。高校時代 までは大田姓で、太平 洋戦争の沖縄戦で日本 海軍の根拠地隊司令官 だった大田實海軍中将の 3男。大田中将は、最 後のキワに打った海軍次 官宛て電報を「沖縄県民 斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ 後世特別ノ御高配ヲ賜 ランコトヲ」という異例 の言葉で結んだことで知 られる。  旗艦「はやせ」(掃 海母艦、満載排水量
り付け、7月 日から 作業を再開、海流が速 い上に原油パイプライン が複雑に走る海域での難 作業を米海軍と共に続 け、8月 日からはクウ ェートに通じる航路帯に も対象を広げて8月末 まで作業を続けた。さ らに9月6日からはアラ ビヤ石油の依頼でカフジ 油田の安全確認作業も 行い、部隊は無事、 月 日に呉港に帰還し た。  帰国してから暫く経っ て、落合君を夕食に招 いた。正味3ヵ月余にわ たった掃海作業について 淡々と語ったが、直前の 予行演習で他国艇が1 隻あたり1日以上かかっ た磁気測定を、日本隊 は4隻あわせて半日で終
った。  この海上自衛隊掃海 部隊のペルシャ湾派遣が 成功理に終わったこと で、日本国内に根強かっ た「自衛隊の海外派遣反 対」の空気が緩和され、 冷戦後の国際秩序の中 で一定の人的貢献が必要 との認識も広がり、 年6月に「国際連合平和 維持活動等に対する協 力に関する法律」――略 称・国際平和協力法が 成立(8月施行)した。 同年9月からのカンボジ ア派遣を皮切りに、モ ザンビーク、東ティモール、 ハイチ、スーダンなど世 界各地の国連ミッションに 自衛隊が参加することに なった。
湾における機雷の除去及 いた。外務省がイラン、 海軍の司令官らとの間に












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