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22 1987 年のヴェネチア・サミットに出席した各国首脳(左から)ウィルフリード・マルテンス(欧 州理事会議長)、ジャック・ドロール(欧州委員会委員長)、中曽根康弘(日本国内閣総理大臣)、マー ガレット・サッチャー(イギリス首相)、ロナルド・レーガン(アメリカ合衆国大統領)、アミントレ・ ファンファーニ(イタリア首相)、フランソワ・ミッテラン(フランス共和国大統領)、ヘルムート・ コール(西ドイツ首相)、ブライアン・マルルーニー(カナダ首相)= 敬称略 =
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Untitled, (Detail 49) ニューヨークから空路  
表されたコミュニケには、 「我々は、世界経済に おいて類まれな変化が
 日本の首脳外交につい
ても触れておかなければ
ならない。
 日本の首相にとっての
大きな外交舞台は日本の
メディアが「サミット」と
通称する「 7=主要国
首脳会議」だ。この会議
は1975年にフランス
のジスカール・デスタン
大統領が、第1次石油
危機後の世界的な経済
困難への対応策について
西側の先進工業国首脳
がヒザ詰めで話そうと、
日・米・英・西独の4
カ国に呼びかけたのが発
端で、イタリアの首相も
参加の意志を申し出たの
で6ヵ国の首脳が同年
月にランブイエ城で最初
の会合を開いた。
 ここで議長国持ち回り 定されていた2014 で毎年開催することが決 年に、ロシアが軍事脅迫 まり、翌年の当番となっ 同然の形でウクライナ領 たアメリカが、カナダも クリミア半島を併合し メンバーに加えることを たことに他の7カ国が反 提案して 7となった。 発。開催権を剥奪して、 その後 =欧州共同体 本部のあるブリュッ
生じている時に集まった。 新たな形態の国際的な
(後に =欧州連合) セルで代替開催、以後、
にも出席の資格を与えた が、 7の呼称は変わら なかった。当初は経済問 題に関する非公式の対話 を目指したが、仏・米・ 英・西独・日・伊・加 の順で開かれて行くうち に、討議のテーマが政治・
7に戻っている。  私は、テレビ朝日と専 属契約をした翌年の 年7月、カナダの首都オ タワでの会合を覗いて以 後、ほぼ毎年、開催地 に出かけて取材するのが 恒例となった。契約が終
サミット取材 回 印象に残るヴェネツィアとナポリ
治、経済、安全保障上 ル化が進もうとしていた。 た村山さんにナポリの の関係改善に重要な意 会合にはロシア連邦のエ 海産物が悪さをしたよ 義を持つものになること リツィン大統領が招かれ うだった。 を希望する。同時に大 ていた。 (つづく)
国際ジャーナリスト 内田 忠男
直行したローマからチャ ーターした車で陸路向か ったので、途中、フィレ ンツェなどにも立ち寄り、 イタリアの空気は満喫し ていたのだが、ヴェネツ
国際問題全般に広がり、 山の頂を示す「サミット」 に因んで、毎年の会議の 準備にあたる各国首脳の 側近たちを、ヒマラヤの 山岳ガイド部族として知 られる「シェルパ」と呼ぶ ようになった。また、当 該年の国際情勢に合わせ て 7以外のゲスト国を 招くケースも広がった。  ただ、仕掛けが大掛 かりになるにつれ、「首 脳同士のヒザ詰め対話」 より、議長国がシェルパ と用意した議題の消化に 追われるようになり、「形 骸化」が指摘されるよう にもなった。
わった 年の前年、フラ ンスのエビアンで開かれ たサミットまで、合わせ て 回―― 年の東京
  年からはロシア連邦 が入って になったが、 ロシアのソチで開催が予
はニューヨーク駐在中で、 ィアは、全く別物だった。
また 年のヒューストン は東京で自分の番組を持 っていた関係で行かなか った――取材頻度の最も 高いジャーナリストだった と思う。  印象に残るのは、まず
アドリア海の最深部、ラ 「円高不況」が心配され グーナ(潟)に作られた運 ていた。議論の結果を「経 河が縦横に走る、文字 済宣言」は以下のように 通りの水の都......広さ5 まとめていた。 平方キロほどのヴェネツィ  「我々は1年前に東京 ア本島に一歩足を踏み入 で会合して以来、多くの
年6月のヴェネツィア・ サミットだった。初訪問 の地であり、古来「水の 都」と呼ばれてきたこの 都市の景観に感動したこ
れた時の感動を、私は忘 れることがない。島内の 道は曲がりくねって狭く、 自動車の乗り入れはでき ない。歩行者専用の街な のだ。主要な輸送手段
積極的進展を回顧するこ
とができる......この変化
は、為替レートを経済の
基礎的諸条件に概ね合
致した範囲内のものとし
た。未だ名目ベースでは
不均衡が大きすぎるが、 面が少なかった。日本国
数量ベースでは貿易フロ 内の報道陣に外国首脳と
ーの調整は進みつつある の親密さや、自らの発言
......それにもかかわらず の影響力を誇大に強調
我々のいくつかの国に残 し続けた割には、彼の発
っている、大幅な対外不 言や意向が浸透した形
均衡、高い失業率、大 跡は見えなかった。
幅な公的部門の赤字や  またこのサミットでは「東
高水準の実質金利といっ 西関係に関する声明」と
た問題を克服する必要 題した政治声明も採択
がある。成長を持続し され、ゴルバチョフ書記
ながら対外不均衡を是 長という新しく若いリー
正する問題は為替レート ダーが出現したソ連につ
の変化のみでは解決しな いて、「我々はソ連の内
い。黒字国は価格の安定 外政策に強い関心を持っ
を維持しながら内需を て見守っている。我々は、 主義市場経済」を宣言し られた。強行日程と初 拡大して対外黒字を削 それが東西諸国間の政 たことから一気にグローバ 舞台の高揚感に包まれ
とも大きい。
がゴンドラと呼ばれる小 舟であることも風情を倍 加していた。  サミットの経済討議で は、プラザ合意から3 年目を迎えていた通貨の 調整が大きな比重を占 めた。円は一本調子の上 昇を続け、日本国内では
減する政策を策定する。 赤字国は着実かつ低イン フレの成長を促進する政 策で財政と対外の不均衡 を減少させる」――  ここから読み取れるの は、日本がプラザ合意後 の急激な円高に抵抗して も、会議全体としては容 認し、日本や西独などの 黒字国に、更なる内需と 輸入の拡大を求めていた 空気が支配的で、アメリ カなど赤字国には強い要 求を控えていることであ る。日本の中曽根康弘 首相は、これが最後のサ ミットになったが、5度目 の出席で各国首脳との間 合いがわかっていた割合 には、説得力を示す場
きな相違が引き続き存
在しており、ソ連の政策
の全ての側面に対応する
にあたっては、依然慎重
な警戒を維持せねばなら
ない」と述べ、ゴルバチョ
フ外交に興味津々だが、 相互作用が我々の国民 警戒は解かないという姿 の生活に非常に大きな 勢も見えていた。 影響を及ぼすとともに、  次いで印象に残ってい 経済のグローバル化をも るのは、これもイタリア たらしている...... 世 のナポリで開かれた 年 紀に近づきつつある現在、 会合だ。日本では、前 我々は、 年前ブレト 年に 年以来の自民党 ンウッズで設立された機 単独政権が終わり、日 関( 、世銀など) 本新党と新生、社会な を再生し再活性化する ど多党連立の細川護煕 とともに、世界中に新 政権が誕生していたが、 たに登場しつつある市場 細川氏と小沢一郎氏の不 経済を指向する民主主 和などから4月に崩壊、 義国家の統合という課 後継の羽田孜政権も二 題に取り組む責任を自 月で潰れ、6月 日に 覚している」と謳い上げ アッと驚く自民・社会の ていた。 連立で村山富市政権が  初日の討議を終えた 発足していた。ナポリ・ 後、日本人記者団の前 サミットは7月8日に始 に現れた村山首相は、 まったから、まさにホヤ 直前に開いたクリントン ホヤの状態でやってきた。 大統領との首脳会談につ 一方経済面ではすでにバ いて語った後、最前列に ブル経済が破綻してゼロ いた私の手を握らんば 成長に突っ込む一方、一 かりに近づいてきて、「親 ドル=100円に近づく 近感、親近感が湧いた」 急激な円高にもさらされ と興奮気味に訴えた。 ていたが、世界では冷戦 その後、夕食に出た私 終結と、中国の最高権 たちに、「村山さんが食 力者、鄧小平氏が「社会 中毒を起こした」と伝え
サミット終了後に発  




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