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OCS
NY
 アメリカ進出企業を全面サポート 日米の懸け橋、村瀬二郎氏の偉業
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ホワイトハウスでジョージ・H・W・ ブッシュ大統領(当時)と握手する村 瀬氏(右)=1990 年 4 月
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愛嬌のある語り口の裏に、
もいい」とおっしゃるので、 5千ドルを小生が払い込 むことにした。銀行口座 も開設する。  次は事務所探し――ニ
断れない説得力があった。 「わかりました」と答える。  とは言っても、テレビ 朝日で画面に顔を出して
Untitled,(Detail 46)
ご主人のケーシー谷口さ んと吉澤君の遺志を継い で事業を継続している。
本人にぜひ会ってみたい と考えたからだ。  法律家だから、几帳 面で威厳のある人と勝手 な先入観を持っていたが、 お会いしてみると、なん とも柔和で笑顔の絶えな い人だった。私より 歳
ず、2年でニューヨークに 帰る。そして、さらに2 年後、8歳で今度は母と 二人きりで母の親戚がい た兵庫県尼崎市塚口に住 んだ。尋常小学校1年生 からやり直し、 歳で旧 制の芦屋中学に入る。そ の前の年、日本はアメリ カとの戦争に突入してい た。  「軍国少年でしたね。 軍歌を歌い、軍事教練は 真面目にやった。将来は 戦艦武蔵の甲板士官にな ってニューヨーク港に入る んだ、なんて言ってた」  アメリカ生まれで米国 籍、「いじめられるのが嫌 で装っていたのでは決して ない」と回想した時の表 情は決然たるものだった。  その戦争で、日本は完 膚なきまでの敗戦。村瀬 さんは芦屋中学を卒業し た 年 月、ニューヨーク に「帰国」、その翌年、陸 軍に召集されて1年間の 兵役に就いた。軍曹で除 隊後、 年にジョージタ ウン大学のロースクールに 入学する。 歳、戦争に よる回り道だったが、戦 争直後の村瀬家の家計 は豊かではない。昼は海 外宣伝を主任務とするヴ ォイス・オブ・アメリカ
使館の顧問だったジョージ 日本に帰国していた間の 山岡氏の事務所に入る。 年春、勲二等瑞宝章 5年後、シカゴに本拠を の栄誉に浴された。それ
国際ジャーナリスト 内田 忠男  話は少し前後するが、 いて相談した。二人とも てができたところで、私
置く大手法律事務所ベー
カー・マッケンジーに移籍、
同事務所のニューヨーク事
務所開設に尽力して、
年、ウエンダー・ムラセ・
ホワイト法律事務所を開
設した。首都ワシントン
と日本、ニューヨークを股
にかけた目まぐるしくも
充実した 年余だった。
 私がニューヨークに転居
した直後、ご挨拶に伺
うと、「ビジネスニュース
の紙面を毎月1ページ、
買わせて頂けませんか」
とおっしゃる。私が広告の
セールスに来た、と勘違
いされているのかと一瞬
疑ったが、「アンタイ・ト
ラスト法制(独禁法にあ
たる)について、系統だっ
た文章を書きたいのです
よ。私は日本語の文章が
下手だから、内田さん
に手を入れて頂きたい」
――広告ではないが、私
を応援しようという好意 日米間の懸案について、 には変わりがない。あり 日本の政府や企業の決断 がたくお受けして、4年 の遅さ、アイデアのなさ 余にわたって連載して頂 に我慢がならない風情で いた。完結前に私がビジ もあった。 ネスニュースを去ったこと  2014年2月、由
1985年秋、ニュース
ステーションが始まるのに
先立って、私は、読売新
聞退社以来勤めてきたビ
ジネスニュースの副社長・
編集主幹の職を辞するこ
とにした。テレビと活字
の二足の草鞋を快く思わ
ない幹部がビジネスニュー
ス社内にいたこともある。
ところが、その直後に、
読売新聞東京本社の丸山
巌副社長から自宅に電話
がかかった。
 「ニューヨークで印刷し
ている読売新聞衛星版の
販売拡張のために、現地
のニュースで作る現地版を
配りたいんだ。ウッチャン、
引き受けてくれませんか」
――こちらは丸山さんを
存じ上げず、ウッチャンと
気安く呼ばれるほどの関
係ではなかったが、どこか Inc.、資本金は「いくらで
◇  ここで村瀬二郎氏につ
を祝賀するホテルオーク ラのパーティでは、私に司 会の大任をお任せ下され た。政財官界の著名人 数百人が参列する盛会だ
仕事する者が、公然と読 ューヨーク・タイムズの 売の仕事をするわけにも 3行広告欄を追って行く 行かない。そこで、私の と、5番街 丁目に割 ビジネスニュース退社に心 安と思える貸事務所の 細い顔をしていたニューヨ スペースを見つけて行って ーク支社駐在の吉澤信政 みる。ビルは古いが立地
に勤めた。そこで 生涯の伴侶となる由枝さ
で、中断することになった。 村瀬さんとしては、いず れ出版しようとお考えだ ったに違いない。まこと に申し訳ないことをした ものであった。  私が番組を与えられて
枝夫人が逝去、半年後の 8月5日、後を追うよう に亡くなられた。ホテル オークラでのお別れ会に は長蛇の列ができた。「戦 後の終わり」を実感した。
(故人)、植田暁芳両君 は良し、広さも手ごろ に読売からのオファーにつ ......で即契約。お膳立
んと出会う。
  年、弁護士の資格を 得た村瀬さんは、日本大
(つづく)
二つ返事で「やらせて下 は裏舞台に引っ込むこと さい」――。ロサンゼル にし、あとは若い諸君に ス時代に私が新卒採用し 「頼んだぞ」(事務所は て編集部員になっていた 後にニューヨーク読売プレ 三浦良一君(現在『週刊 ス社=後に読売アメリカ
いて書いておきたい。
 初めてお会いしたのは、
まだロサンゼルスにいた
ころ、ニューヨークに出張 も年長と思えない若さも してインタビューに伺った あった。ただ、芯の強さ 時だった。2017年に は容易に想像できた。 フリー・ジャーナリストの  村瀬さんは世界恐慌1 児玉博氏が『日本株式会 年前の1928年にニュ 社の顧問弁護士、村瀬二 ーヨークで生まれた。父 郎の二つの祖国』(文春新 親は現在の名古屋大学医 書)を出している。このタ 学部を卒業後、日露戦争 イトルにもあるように、 の旅順攻略戦に軍医とし アメリカに進出した日本 て参加した後、ニューヨー 企業は、その草創期から クに移住し、医学校に再 村瀬さんの世話になった。 入学して医師を開業して 私がしたように法人の作 いた。4歳の時、母と兄 り方はもちろんのこと、 と共に帰国し、母の実家
った。  2度目のニューヨーク駐 在となった 年代には、 私と妻の永住権取得でも 大変お世話になった。連 邦議会議員の推薦状まで 取って下さる懇篤さだっ た。  折に触れ、事務所を お訪ねしたり、村瀬さ んから声をかけて頂いて 夕食をご一緒したことも 度々だったが、笑顔の絶 えない会話が一瞬止んで、 額にシワを寄せられる時 間があった。「日本はいっ たい、どうしようとして るんですかね。どこに行 こうとしているのでしょう」 とため息まじりに言われ る。村瀬さんにとっては、
生活』発行人)にも 声をかけると、これも「す ぐニューヨークに行きます」 ――即座に応じてくれた。  そうと決まれば、まず 法人の設立から始めなけ ればならない。ただし、 そういう手続きにはとん と疎い。かねて懇意の村 瀬二郎弁護士のもとに参 ずる。「アメリカでは会 社を作るのはメシを食う ように簡単ですよ。社名 と資本金をどうします?」  社名は活字と電波な ど異種の情報媒体に対 応できるという意味で
社に改名=に移転)。こ うしてスタートした『The
Intermedia New York
共同発行人として発刊。 2010年に吉澤君が急 逝した後は、彼と行動を 共にした村井美香さんが、
New York Yomiuri(後に
The Yomiuri America に 改名)』は、読売新聞が
アメリカでの衛星版発行 を休止した2003年ま で続き、毎週一回、本紙 挟み込みで購読者に配ら れ、多くのファンを獲得 した。今、この文章を掲 載している『よみタイム』も、
『The Yomiuri America』 が休刊後に吉澤君と、ニ
マーケティングやさまざま な法制、駐在員家族の生 活、カネの借り方、さら には政府や議会へのロビ ーイングに至るまで、ま さに「箸の上げ下ろし」か らお世話になった会社が 少なくない。こうした評 判を聞いていたので、ご
の東京・牛込に住んだが、 兄が日本の学校に馴染め
ューヨークのコミュニティ誌 『 ニュース』で編集 長を務めた塩田眞実氏が
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