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CE69 PJ 46 O81
 1980 年、アブダビを訪問したロックフェラー氏(右)
Hashmoder / wiki.org/ CC
D・ロックフェラー氏と単独会見 挑戦こそがイノベーション
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Untitled,(Detail 43)
に向かう私は冷静だっ
た。アメリカを代表す
る大金持ち、超大物に
会うという緊張や興奮
はなかったが、指定され
たフロアでエレベーターを
降り、受付からデイヴ
ィッド氏の部屋に導かれ
るあたりから、さすが
に緊張感がつのってきた。 い関心と好意を持ってい  「目先の貿易赤字を強
ふくよかな絨毯を敷き る理由を伺う。 調して騒ぐのは、どこの
詰めた廊下がかなり長  「私は銀行家として戦 国にもあることで、ここ
く続くのだが、その壁 後日本の有り様と足取 から日米関係が戦前の
面には、小ぶりではある りに注目してきた。そこ ように悪化するとは全
が、いずれ名のある画家 で感じたのは、日本人 く考えていない。ただ、
の作品であろうと思わ が本当に真面目に国家 日本人はもっと発言しな
れる額がズラッと掛けら と経済の再建に取り組 ければいけない。デモク
れていた。それが尽きた んできた姿だった。私は ラシーとは、人も社会も
あたりにやや大型のドア 民主党を支持している 国家も、自由に議論を
があり、案内の秘書が が、ルーズベルト大統領 闘わせて、そこから解 年にロックフェラー・セ
国際ジャーナリスト 内田 忠男
ンは、技術の革新に留 まらないのです。モノで あれ、それを作り出す 技術であれ、また販売 先やサプライヤーの獲得、 独占を打破する組織の 実現......すべてにわたる 新しいチャレンジこそが イノベーションなのです。 それを実行するのがアン トレプレナーなんですね。 イノベーションの実行には おカネが必要です。そ れを借り出す信用創造 もイノベーションになる」 ――立て板に水の如き 講義だった。  この会見から5年後、
 1984年秋、ロック ー州知事を務めたウィン 人には珍しい同一企業一 られ、それなら自分た フェラー財閥の3代目当 スロップ・ロックフェラー 筋を貫いた。 ちで日本を含めた仕組 主、デイヴィッド・ロック 氏らの政治家も輩出し  そんなデイヴィッド氏 みを作ろうと、民主党 フェラー氏と単独会見し ている。 には、親日家としての一 系の政治学者で後にカ た。  一族の3代目を継い 面があった。 年に勲一 ーター政権で安全保障  これはテレビの仕事と だデイヴィッド氏は、 等瑞宝章を贈られたこ 問題補佐官も務めたズ は関係なく、編集主幹 1915年6月にジョ とからも並々ならぬ功 ビグネフ・ブレジンスキ を務めていたビジネスニ ン・ロックフェラー2世 績と評価があったことが ー氏と図って、宮沢喜一 ュースの特集記事を書こ の5男1女の末子とし 知れる。ジャパン・ソサ (後の首相)、大来佐武郎 うと無手勝流でコンタク て誕生、ハーヴァードで、 エティーの建つ土地はロ (官僚出身のエコノミス トした結果、意外なほ 絶えざるイノベーションこ ックフェラー家が提供し ト、外交官)氏らを招い ど容易に が出た。  そが経済を成長させる たもので、 年からは た勉強会を開き、これ  ロックフェラー家と言 と説いていた経済学者ヨ 長く名誉会長の座にあっ を翌年には「日米欧委員 えば、スタンダード・オ ーゼフ・シュンペーターの た。知る人ぞ知る「3極 会」に発展させた。日本 イル(現在は、大半がエ 教えを受け、イギリスの 委員会」は 年に「日米 に好感を抱いていても、 クソンモービル)と現在 社会主義知識人が起こ 欧委員会」の名で同氏が ここまで真剣に舞台裏で のシティバンクの創業家 したフェビアン協会につ 創設を主導した。その 動き、実現させる意思 で、モーガン、メロンと いて卒業論文を書いた。 背景には、世界に影響 と能力を持つ人は滅多に 並ぶアメリカ3大財閥 その縁で同協会が創立 力を持つ個人・企業・ いない。貿易摩擦が燃 の一角を占める「華麗な に関与したロンドン・ス 団体などの代表が年に一 え盛る日米関係について る一族」。マンハッタン中 クール・オブ・エコノミ 度会合して時々の重要 どのような考えを持って 心部にロックフェラー・セ クスに留学して修士号を 問題を非公開で話し合 いるか。 ンターという広大な不動 得てから、シカゴ大学で い、「影の世界政府」と  ロックフェラー・プラザ 産コンプレックスを展開 経済学博士を取得した。
それを開けると、整然と、 が日本を戦争に追い込 決策を導き出して行く、 そして上品な調度がしつ んで行く政策には疑問 そういう制度です。黙っ らえられた部屋にご本 を感じていた。特にオイ ていては何も伝わらない。 人が立っていた。 ルの禁輸で日本を窮地 声の大きい側の言いなり  「今日は私のために時 に追い込んだことは間違 になるだけです」―― 間をとって頂いて有難う いだと思っていた。むろん、  この答えで、デイヴィ ございます。お会いで 当時の日本の軍国主義 ッド氏が日米欧委員会
ンターを三菱地所に売り 渡したときには、アメリ カ各界や一般市民から 強い批判の声が上がり、 デイヴィッド氏がそれを 一身に受けた。その一方 でジャパン・バッシングに 油を注ぐ形にもなったが、 間もなく訪れた不動産 不況で 年には運営会 社が破産、地所が買収 した 棟のビルのうち 棟は売却された。この取 引でロックフェラー側は損 をするどころか、大き な利益を出したという。 そうした“したたかさ” も当然の帰結であった。  2017年3月 日 朝、自邸で睡眠中、うっ 血性心不全で101年 の生涯を閉じた。
するほか、リンカーン・ 経済学の学徒としては センターやワールド・ト 誠に充実し、かつ華々し レード・センター、国連 い学歴と言える。 本部などの建設でも主  卒業後は、第2次大 導的役割を担い、マンハ 戦の期間を通してニュー ッタンの都市計画の中核 ヨーク市長を務め、今 をなしている。また、ニ は空港の名にもなってい
政府に多くの誤りはあっ の創設に尽力した理由 たが、太平洋を挟む両 も解けた。 国が戦争するのは無益で  氏が経済学の師と仰 しかない。不幸な戦争 いだシュンペーターにも話 が終わって、日本は全て が及ぶ。私も経済を学 を失った。が、そこから んだ。出身校の慶應義 の立ち直り、resilience 塾は、当時1年生にい には目を見張るものが きなりポール・サミュエ あった。私は銀行家とし ルソンの『Economics』の て、苦境から立ち直ろ 分厚い原書を教科書と うとする個人や企業を して与え、経済原論の 少なからず助けてきた。 講義が始まったことを話 戦後日本の姿を見れば、 して、「サミュエルソンも 手を差し延べたくなる シュンペーターの弟子の一 のが自然の情でしょう」 人ですね」と持ちかける ―― と、にこやかな笑顔がま  私は自分の新聞記者 た広がった。
ューヨーク州知事からフ るフィオレロ・ラグァー ォード政権で副大統領と ディアの秘書・補佐官と なったネルソン・ロックフ して働いた後、 年に ェラー氏や、ウエストヴ 当時のチェース・ナショナ ァージニア州知事から同 ル銀行(現 モー 州選出の連邦上院議員 ガン・チェース)に入り、 を4期 年務めたジェ 年には会長、 〜 イ・ロックフェラー氏、 年にかけては を 年代終わりにアーカンソ 務めるなど、アメリカ
(つづく)
も言われていた「ビルダ ーバーグ会議」に日本の 代表を招こうとオラン ダ王室に提案したが断
きて、とても喜ばしく、 としてのほぼ原点が そして誇りに思います」 年東京五輪の取材だった と挨拶すると、にこやか ことを話し、日本の復 な笑みを湛えて「どうぞ、 元力には誇りを感じて お座りなさい」―― きたが、資源のない日  設定された会談時間 本は輸出で国力を強化 は 分、礼節にのみと するしかない、そこに非 らわれている余裕はない。 難を強めているアメリカ まず、日本に尋常でな の現状について問うた。
「彼の言うイノベーショ  

















































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