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日本の「常識」を海外で実践 74 高品質・高生産性を確立
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2020 年 1 月、アメリカ・オハイオ工場における四輪車の生産台数が 2000 万台を達成。 記念すべき 2000 万台目は「アコード ハイブリッド」(上記写真)
Photo courtesy of American Honda Motor Co., Inc
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 私が国際ジャーナリズ ムに足を踏み入れてから の半世紀余り、日米関 係では貿易摩擦がほとん ど恒常的にぶら下がって いた。   1970年代初めの 繊維摩擦では、アメリ カ側が1917年にでき た対敵通商法まで持ち出 して輸入制限の構えを見 せたのをはじめ、 年 代以降の家電、自動車、 半導体などでは通商法 201条、 301条、 スーパー301条などの 適用をちらつかせて対応 を迫ってきた。日本側は その都度、輸出自主規 制や現地生産などで対応 してきたが、いずれも業 界任せで、日本政府が 必要以上にウロウロして 決断が遅い、守勢一本で 攻めの知恵がない、な ど不満に思えることが多 かった。当時の通産省は 強力な産業政策で「無敵
で埋められてしまうとい
う危機感がつのっていた。
そうした日本企業の強
さに着目したハーヴァー
ド大学のエズラ・ヴォー
ゲル教授が 年に『ジャ
パン・アズ・ナンバーワン』
という本を書いて日米両 ッグ3の業績は軒並み悪 国でベストセラーになる。 化、労働者の大量レイ
の対応が遅れたためで、 輸入車の増加によるもの ではない」との裁定を下 し、政府の輸入制限措 置を認めなかった。  それでも連邦議会下院 が 月に、日本製小型 車の輸入を制限する交渉 の権限を大統領に与える 決議を圧倒的多数で可 決。上院財務委・国際 貿易小委員会のジョン・ ダンフォース委員長(共 和、ミズーリ州)は、向 こう3年間、日本車の 輸入を年間160万台 に制限する法案の提出を 表明するなど対日強硬 論は強まるばかり。 年大統領選挙で圧勝した ロナルド・レーガン大統
豪腕のMITI = Ministry of International Trade
and Industry」と言われ ていた割には守りに弱か
◇  ここでは自動車をめぐ る摩擦について振り返っ
った。  一方、この頃の日本 企業の拡大志向は猛烈 と言って良いほど強く、 それが洪水のような対米 輸出を生んで、アメリ カ側には、放置すれば 国内の市場が日本製品
てみたい。
 発端は 年代、2度 にわたって起きた石油危 機だった。ガソリン代が 急騰したうえ品薄にも なってサービスステーショ ンには長い車の列ができ
(つづく)
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(国際貿易委員 会)は、「自動車産業の 不振は内需の落ち込みと 石油製品高騰に伴う需 要の小型車シフトに業界
領は、選挙戦中に自動 車産業救済を公約に掲 げ、政権発足早々には閣 僚級のタスクフォースを 設けて救済策の検討を始 めた。  こうした圧力を受け て日本政府と自動車業 界はお定まりの自主規 制を導入、 年には 200万台を大きく超 えていたのだが、どう いうわけか 年実績を 182万台として初年 度168万台に減らす と約束したが、この程 度でアメリカ国内の規 制圧力がゆるむもので はない。家電業界の例 に倣って、自動車の現地 生産を決断せざるを得 ない情勢が日増しに強ま っていった。  真っ先に対応したのは ホンダだった。オハイオ の州都コロンバスの郊外、
メアリズビルという町に 4輪車工場を建設、 年 月からアコードの生 産を開始した。正確に 言えば、ホンダは日本 車批判の高まりを見て現 地生産を決断したわけで はない。 年9月に2 輪車の現地生産を始めて おり、翌 年1月には 日本車メーカーとして初 めて4輪車のアメリカ生 産を2輪工場の隣接地 で始めることを発表して いた。 ホンダはかねて から「市場に近いところ で生産する」ことを基本 方針にしており、早く からアメリカでの生産拠 点を探していた。
契機に、事業者は従業 員の採用にあたり、当 該コミュニティの人種比率 に応じた割合でマイノリ ティも雇用することとさ れていた。 ホンダは現 地生産を決めるのに当た って、工場用地となる町 の人種比率を精緻に調べ たのであろうと推測す る。メアリズビルの住 民は当時 %が白人だ った。 上から下まで真 っ白になる道理である。 日産スマーナ工場は南部 テネシー州だからアフリ カ系の比率は当然高く なり、雇用した従業員 にもその比率が反映し た結果だったろう。  違いは白黒の問題だけ ではなかった。ホンダの 工場が日本のマザー工場 そのままに、床にチリ 一つ落ちていない磨き上 げた清潔さだったのに対 し、日産工場のそれは、 ソーダ飲料の空き瓶や空 き缶がゴロゴロ転がり、 清掃も行き届かない、 アメリカのビッグ3の工 場と変わらない風景が広 がっていた。  ホンダが最も重視した のは、こうした工場内 の規律だった。アメリカ での生産という重大な決 断をするに当たって、ホ ンダ流の高い生産性をど う確保するかが一番の課 題であり、そのために は生産現場での従業員の 規律を日本国内の工場 と同じレベルに保たなけ
ればならない。人種差 別という意識の問題では なく、さまざまな角度 から検討を重ねた挙句、 最初の工場は意識と練 度の高い労働者が確保し やすい地点を選んだ結果 だった。  工場の一角に新入りの 労働者向けに、車の組 み立てを流れ作業でな く一人で完結させる場 所を設けて教育してい た。こうした独自の工 夫もあって、後に複数車 種を単一ラインで生産 することになっても、ス ムーズに流れるようにな っている。  トヨタは、ホンダと 日産に遅れただけでな く、最初の工場は との合弁という道を選 んだ。カリフォルニア州 のベイエリアに共同工 場を建て、それぞれの 小型車を別のラインで 生産した。単独の工場 は、ケンタッキー州ジョ ージタウンで 年1月か ら操業を開始した。こ の慎重さはトヨタとい う会社の社風なのか、 アメリカでの現地生産 に確信が持てなかったの か、私には分からないが、 生産開始から 年近い 歳月が流れ、工場の数 も格段に増えているが、 トヨタは現地生産車が 総販売台数の %程度 なのに対し、ホンダは %超を占めている。
国際ジャーナリスト 内田 忠男
 後年、ヴォーゲル教授 にじかに会った際、「私 はアメリカの企業や当事 者たちに、日本企業の 強さの根源がどこにある かを説いて、このままで は、次の世紀は日本の 世紀になる、だから冷 静に我が身を正して欲し いと警告するつもりであ の本を書いた。ところが、 アメリカはもう日本との 競争に負けたと断定した ような受け取られ方を した、日本では勝った勝 った、もうアメリカに学 ぶものはなくなったとい った熱風みたいなものが 吹く結果になった。これ は不本意でしたね」と苦 笑されていた。
オフに走らざるを得な くなる。 年5月には、 レイオフされた労働者が 日本車をハンマーで叩き 壊すパフォーマンスをして、 それがテレビで大きく報 道された。  フォードと (全 米自動車労組)は共同 して 年通商法301 条に基づき輸入日本車 からの救済策を政府に 要請したが、審査した
 翌 年6月には日産 もテネシー州スマーナで ダットサントラックと乗 用車サニーの生産を開始 した。両社の生産開始 から比較的早い時期に 工場を見せてもらった。 第一印象をあえて一言 で言えば、「ホンダの 工場は真っ白、日産は ダーク」――。  ホンダはどの工場でも 従業員に真っ白のつなぎ の作業服を着せているの だが、オハイオ工場では、 その白のユニフォームの上 に出ている顔もほぼ真っ 白、つまり白人が大多 数だったのに対し、日産 の工場は黒人の比率が 高かったのだ。 年にケ ネディ大統領がアファー マティブ・アクションの 大統領令を発したのを
た。消費者は燃費の優 れた小型車に走る。発 売されて間がないホンダ のシビックなどが人気を 集め、大型でガソリン をガブ飲みするアメリカ 車は売れなくなった。ビ
















































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