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 収容時に撮影された人々 ( オシフィエンチム博物館展示 )
Photo Author: Bubamara
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 1981年5月 日、 ワルシャワからの生放送 を終えると、私たちは 自主管理労組「連帯」の 反政府運動に揺れるポ ーランド国内の旅に出 た。引率したのは東京 からやってきた番組のチ ーフ・ディレクター、早 河宏氏。私より4期若 い 歳だったが、偉丈 夫とも言える体格だけ でなく、スケールの大 きい構想・判断・行動 力が際立っていた。それ でいて決して無理はし ない抑制心も備わってい る。その後「ニュースス テーション」の初代プロデ ューサーから編成、報道 局長を経て、2009 年には長く朝日新聞出 身者の定席となっていた 社長の座をつかみ取り、
の人手不足を補う農業 機械の導入が大幅に遅 れた。農業集団化の遅 れもあって農産物の流通 にも多くの問題がある。
兼務の会長にも なって、長くテレビ朝日 経営の総指揮をとってい る。同氏との長いお付 き合いはこの時に始まっ
◇  南に下ってチェコとの 国境に近いところにオシ フィエンチムという町が ある。ここにドイツ名
た。  ポーランドは面積
で言えば誰もが「ああ」 と肯くアウシュヴィッツ第 一強制収容所があった。 ナチス・ドイツがユダヤ 人抹殺のために設けた、 強制収容所というより、 ホロコーストの舞台で、 レンガ造り2階建ての 建物群がポーランド国立 の博物館になっていた。 殺された人々から刈り取
万3千平方キロ、日 本の約8割に相当する 国土に当時の人口は 3500万人。南部の 山岳地帯以外は広大な 北ヨーロッパの平野が広 がる。  ワルシャワを出て南南 西にある古都クラクフ
過酷な体験が植え付けた 国家への不信感
(つづく)
Untitled,(Detail 38)
リの党官僚であるチョセ
ク労組担当相にも共通
しており、「社会主義体
制下のスト権について法
律的な議論は専門家に
委ねる」としたうえで、 会主義統治の常道とも
的な救援の手を差し伸 べるわけには行かない」 という見方で一致してい た。「そんなことをすれ ば間違いなく第3次大 戦になる。だから現状 としてはポーランドが東 側陣営に止まってくれる
髪、それで編んだ布地、 人の皮膚で作った電灯の 笠、人の脂肪で作った石 鹸......社会部記者とし て数多くの修羅場を体 験してきた私にとっても 正視に耐えないものが 果てしなく陳列されて いる。同行した安藤優 子さんが、気分を悪く して倒れてしまった。眼 鏡、義足、洗面器、歯 ブラシなどの遺品も山 のように積まれていた。 そして、収容者が「入 浴」と騙されて導かれた ガス室......ポーランドは、 こうした「場」を提供さ せられた。 そこにこの 国の悲劇的な運命と歴 史が凝縮されているよ うに感じたものだった。  古くは、東方のロシ ア人、西方のドイツ人、 南方から蒙古人やトル コ人に攻められ、 〜
国際ジャーナリスト 内田 忠男
に向け、チャーターした
車を走らせる。
 見渡す限りの農地が
続いていたが、畑に人
影が少ない。 居ても、
見るからに高齢で、し こうした矛盾と不均衡
労働者がストに走らざ るを得なかった客観条 件に一定の理解を示し、
いうべき弾圧・抑圧・ 鎮静化の道を避けてい るフシがあった。問題は、 こうした状況を宗主国 ソ連がどう見るか。 年のハンガリー暴動も、
かもトラクターなどの 農耕機が極端に少なく、 馬にスキをつけた旧態 依然たる農法に頼ってい る。なるほど、これは ひどいーー。  実際この目で見たポー ランドの農業地帯には、 これが社会主義国かと 驚く実態があった。 全 体の8割をも占める自 作農は、農機具を買う ために融資を受けよう にも、遅れている集団 化を進めたい政府の干 渉で、なかなか順番が 回ってこない。そういう 状況に愛想をつかして 若者は都市に出て行き、 絵に描いたような高齢 化が進んでいた。  肥沃そうな広大な農 地があるのに、なぜ食 料不足が起きるのか、 ワルシャワ滞在中に単独 会見したマリノフスキー 副首相の答えは苦渋に 満ちていた。  「工業と農業の近代化 は本来、平行して進め られるべきだったが、工 業が先行してしまい、 農村の労働力が都市に 吸収される一方、農村
から食糧の供給に深刻 な不安定を招いてしまっ た」。  副首相は「デモクラシ ーの欠如」とも明言した うえで、「それが民衆の 不満を呼び、長期スト の原因にもなった」と、 ソ連の高官が聞けば絶 句するようなことまで 述べていたことが当時の メモ帳に記されている。 こうした感性はバリバ
「いま、この国で最も 必要なのは、全国民が 一致して経済を立て直 すこと。その点でヴァウ ェンサ連帯議長との間に 見解の違いはない」とも 語った。連帯の要求がエ スカレートして社会主義 の枠を超えてしまう恐 れがないのか問うと「連 帯は悪魔でも天使でも ありません」と含蓄に富 んだ答えを残していた。  このように、当時の
年のプラハの春も、 現地政府が断固たる対 応をしないことに業を 煮やしたソ連が軍隊を 投入して圧殺したのだっ た。  ところが、一般のポ ーランド市民は、そう した懸念に表向き全く 否定的だった。根拠を問 うと、ソ連自体が厳し い経済困難に直面して いて、ポーランドに大部 隊を送り込む余裕がな いというのだ。しかも、 自由化要求の原動力に なっている連帯への支持 は拡大する一方で、軍 事力だけでこの流れを 変えることはできない、 という確信が広がってい るようだった。  確かに、東欧最大の 領土と人口を持ってい たポーランドを平定す るには少なくとも 万 の兵力が必要とされた
膨大な対外債務の即時 決済も迫られる。西側 諸国は様々な経済制裁 を発動するだろう。  当時のソ連に、それ に応える能力があると は思えなかった。  しかし、ポーランド の地政的環境を考える と、手放しの楽観も許 されない。ハンガリーや チェコのように西側への 出口が開かれている国 でさえ、ソ連の軍事介 入にはひとたまりもな かった。ソ連の相対的な 力が低下しているとはい え、ポーランドは東欧 の内懐に深く抱え込ま れた出口のない国であ る。それが社会主義を 放棄する気配を示した 場合、ソ連は万難を排 しても陣営内に止めお こうとするだろう。ポ ーランドから帰った後、 アメリカ国務省の官僚 や国際問題の専門家に 聞いてみると、「仮にソ 連が軍事介入したとし
「農民連帯」の誕生を巡 っては、その適法性を 審査するワルシャワ地裁 前に国内各地から集まっ た農民代表らが、まだ
ポーランド政府高官の間 には、にわかに沸き起 こった連帯ムーブメント への対応で明らかに当 惑と混乱が見られ、社
が、当時のソ連は 年
暮れに侵攻したアフガ
ニスタンで、ペルシャ湾
岸を含むイスラム諸国
から流入したゲリラの
激しい抵抗に遭い、後に
「ソ連のベトナム戦争」
と呼ばれたほど、対応
に手を焼いていた。 そ
のうえ、力づくでポー ことを望むしかないの ランドを平定した場合、 です」――引退した元駐 3500万人に必要な ポーランド大使の言葉だ 食糧、生活物資を供給 った。 しなければならない。  ワルシャワで目撃した
ても、アメリカが実質 ったおびただしい量の毛
代の若き指導者ヤン・ クーワイ議長を胴上げし ながら「ポーランドは我 らがもの」と連呼してい た。私は、こうした光 景を眺めながら、これが
「束の間の春」に終わら なければ良いが、と心 底思ったものであった。
世紀にはロシア、プロ シャ、オーストリアに、 第2次大戦ではソ連と ドイツに領土を分割さ れていた。 そして大戦 後は、東側を大きくソ 連に削り取られ、敗戦 国ドイツの旧領土へ理不 尽極まる平行移動を迫 られた。こうした過酷 な体験が、ポーランド 人の心に、国家や体制 への深い不信を根付かせ てしまったように思えた のである。







































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