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       スコウクロフト氏
アレン氏
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47
40
フォード大統領 ( 左 ) と会話するキッシンジャー氏 (1974 年、ホワイトハウスで)
ブレジンスキー氏
タワー氏
73 73
73
69
556173
81 82
77
81 75 77
HN K
 [ 11 ] 7/9/2021 YOMITIME・WWW.YOMITIME.COM・info@yomitime.com・
   私が関わることになっ たテレビ朝日の番組は、 前回述べた仕掛けの壮 大さだけでない、凄さ があった。  1981年が明ける と、アメリカ政界の超 大物ヘンリー・キッシン ジャー博士の生出演を企 画し、発足したばかり の共和党レーガン政権の 外交政策の見通しと現 下の国際情勢についての 分析と解説を依頼した。 これほどのビッグネーム が日本のテレビ番組に 生出演するのは不可能 と思えた時代。しかし 博士は「発言が編集され て真意が伝わらない恐 れのある事前収録より 生出演の方が良い」と承 諾してくれた。博士の テレビ出演は、むろん 日本で初めてのことだっ た。酷寒の季節、しか も日本との時差がある のでニューヨークでは早朝 である。スタジオのあ る 丁目2番街のビル に分厚いコートに身を包 み悠然と現われたとき、 私の心には熱い感動が走 ったものだった。  キッシンジャー博士は ドイツ生まれのユダヤ人。
ハイツに住んだ。ニュー ヨーク市立大から陸軍勤 務(情報部門、退役時 軍曹)を経てハーヴァー ドに進んで政治学と国 際関係を学び、「Peace,
が実現した、と論じた。 サマリーを読んだだけで も、緻密な論理を引き 出した広範な研究努力 の程が偲ばれる力作で あった。  ハーヴァードで教授を 務めるうち、アメリカ の外交政策に影響力を 強め、 年のニクソン政 権発足と同時に、国家 安全保障担当の大統領 補佐官を委嘱され、 年9月からは国務長官 として、ニクソン、フォ ード政権の終わりまで、 アメリカ外交の舵取り を担った。この間、密 かに中国を訪問して毛 沢東、周恩来と接触を 重ね、国交正常化につ ながるニクソン訪中を実 現したのをはじめ、 年の第4次中東戦争で は、テルアビブ、カイロ、 ダマスカスを何度も往復
年1月にパリ和平協 定の調印に漕ぎ着けた。 同年3月末までには米 地上軍の撤退が完了、
「Good to see you」と 馴染みのある低音を発
猿芝居のような真似を、 私たちはしたことがな かった。  政界要人で言えば、 上院軍事委員長を務め ていたジョン・タワー氏
歳だった1938年に ナチスの追及を逃れて アメリカに亡命、マンハ ッタン北部のワシントン
キ ッ シ ン ジ ャ ー 氏 と 日 本 初 の テ レ ビ 会 見
 この論理は 年近く 「お話を伺ってからでな 生々しい。
Untitled,(Detail 36)
反対や障害が多くとも
アメリカにとって現実の
国益が何か、冷静に分
析したうえ、それを実
現する方向と方策を定
め、そこに向かって周到
な術策を構えて精緻な
交渉に臨み、結果を出
した。
 明晰無比の頭脳に加
えて、柔軟な発想と想
像力、相手を説得する
に足る論理の構成、そ
して弛まぬ忍耐心抜き
には、どれ一つ実現し
得なかったであろう。稀
代の国際政治家、外交
家であったのと同時に、 めることが多かった。一
国際ジャーナリスト 内田 忠男
の解説番組のよ うに、問答のすべてを 事前に原稿にしておく
Legitimacy, and the
Equilibrium」というタ イトルの論文で博士号
年ケネディ政権によ る本格介入以来、最盛 時には地上部隊だけで
しながら、分厚い掌で 私の手を幾度も包み込 む、そういう謙虚で温 かみのある人でもあった。 ◇  国家安全保障補佐官 の経験者では、他にも ブレント・スコウクロ フト( 〜 年)、ズビ グネフ・ブレジンスキー
(共和、テキサス州)と の会見も印象深い。日 本の“安保タダ乗り”が 米側高官の口の端にの ぼるようになった頃で、 平和憲法を国是とする 日本では制約が多いと するこちらの説明にジッ と耳を傾けた挙句、「憲 法は時代に応じて変え るべきだ」と投げつける ように答えてきた。憲 法改定に向けた国民感 情が未成熟だと重ねて 述べると、それを遮る ように「日本人はもは や日本のことだけ考え ていてはいけないので す。世界の情勢を広く 見渡して、アメリカの 同盟国である日本がど ういう責任が果たせる か、真剣に考えて欲し い。アメリカだって、い つまでも日本の保護者で いるわけにはいかないん ですよ」と熱っぽく迫っ てきた。
を取る。「合法性と均 衡の下での平和」とでも 訳そうかーーフランス革 命とナポレオン戦争で 混乱した欧州の秩序再 構築のために開かれた 1815年のウイーン会 議について、会議を主 宰したオーストリアの後 の宰相メッテルニヒ外相 と、アイルランド生ま れながらイギリスへの併 合を主導、イギリス代 表として会議に出席し、 中心的役割を演じたカー スルレー子爵に焦点をあ て、フランスへの懲罰よ りも力の均衡の回復こ
万人もの兵力を投入、 5万8千人近い戦死者 を出したベトナム戦争に アメリカなりの終止符 を打った。 また、ソ連 とのデタント=緊張緩和 にも大きな役割を果た した。  博士は偉大な現実主 義者である。対中正常 化、中東やベトナムの 和平、対ソ緊張緩和な ど、業績のすべてが黒 子のような役割に徹し た結果だったが、たとえ
戦略思想家としても一 頭地を抜いた存在であっ て、日本の政治家、外 交官では、足元にも遠 く及ばない。  ベトナム和平への功績 で 年のノーベル平和賞 も受賞している。  番組出演にあたって は、質問事項の事前提 示など、要求は一切な かったが、こちらの問い
例を挙げれば、ポジテ
ィブな見方、ネガティブ
な見方、どちらでもな
い中間的な見方を提示
して状況を鋭く分析し
たうえで「私自身はこう
思う」と結論を提示す
る、博士独特の演繹法
だった。法科論理とでも
言おうか、複雑多岐に
わたり、込み入った状
況をいとも軽やかに解
きほぐし、整然と筋道
立てて論証する......聞
いていて、「この人は何
と頭の良い人だろう」と
感心させられるのだが、 いようだった。そして彼
そ重要としてConcert
( 〜 年)、リチャー ド・アレン( 〜 年) 氏らとも1対1の会見 をしたが、話の中身の 濃さ、それに要する時 間の短さ、という点で キッシンジャー博士の右 に出ることは決してなか った。とくにブレジンス キー氏などは、事前に 質問内容をしつこく聞い てくる。それに応じて 原稿を事前に用意した
of Europe と呼ばれた 全欧州の協調が実現し
た、と分析。「合法性」 は必ずしも「正義」と一 致するものではないが、 協調より対立の多かった 当時の欧州の5強、英 墺独仏露のリーダーが合 意したことで「合法性」 が担保され、その後百 年にわたって大戦争のな い均衡重視の国際秩序
そこに曖昧な表現がつけ 入る隙はなかった。それ でいてふんぞり返ったり、 高飛車な姿勢や、思い 上がりを感じたことは 1度もなかった。難解な 用語で煙に巻くことも なかった。  むろん、事態がすべ
の答えはいつもクドクド
と長かった。事前収録の
場合は、自分のコメン
トをどのくらいの秒数
で使うか、これもしつ
こく聞き出そうとする。 を経過した今も、全く
するシャトル外交を展開 して収束に努めた。  ニクソン大統領が選挙 で公約したベトナム介入 の終結に向けては、レ・ ドク・ト北ベトナム共 産党中央組織委員長と 困難な秘密交渉を重ね、
かけに間髪を入れずト ツトツとしたドイツ訛 りの強い英語で淀みな く語られる博士の言葉 には、言い知れぬ重み があった。しかも簡明直 截でわかり易いのであ る。  博士とテレビで会見 する機会は、この後も 2度あったが、質問が終 わるとすぐに、「それに は3つの見方がありま す」とか、「それを話す には3つの前提があり ます」など、「3つ」と いう数字を使って話し始
て博士の予言通りに動 いたわけではなかったが、 その時点では聞く人々 を納得させるに十分な 説得力があった。  パーティーや空港のロ ビーなどで偶然出会う と、 その都度、 博士 の方から歩み寄られて
できません」と、強い言 葉を返したこともあった。
いと、どこをどれくら い使うかなど、お答え
(つづく)










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