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 よみタイムについて
   
よみタイムVol.81 2008年1月25日号掲載

ジャズ・ピアノニスト 秋吉敏子 
コロンビア大学教授 ジェラルド・カーティス


今夜はスウィング(前編)


仕事の選択肢なかった 秋吉
ピアノの限界を感じた カーティス



ジェラルド・カーティス氏(コロンビア大学教授)
1940年生まれ。政治学者、コロンビア大学教授。74年から90年まで、同大学「東アジア研究所長」著書多数。1967年の総選挙に、大分二区から立候補した佐藤文生のキャンペーンを密着取材し、日本の選挙運動を分析した博士論文を執筆。同論文を基にした「代議士の誕生」(サイマル出版)を出版し、日本で話題を呼んで日本政治研究の第一人者となった。02年に日本国際交流基金賞、04年に旭日重光章。

カーティス 秋吉さん、今夜は来ていただいてありがとう。先月、「よみタイム」のインタビューを受けて、若いころ、僕が目指していたジャズピアニストから、何故政治学者に転向したのか、という話をした時に、秋吉さんの話が出て、お会いしたいと思っていたんですよ。この話は、4月に日経BP社から出版される僕の自伝のテーマのひとつでもあるんですけどね。僕は小さいころにピアノを始めて、高校生でジャズにはまったんです。実際にミュージシャン・ユニオンにも登録して高校在学中に、アップステートのキャッツキルのホテルに雇われ、毎年夏はそこでピアノを弾いてました。その後、ニューヨーク州立大学の音楽部にも進学したほどです。でも結局、ピアノに対するパッションが充分じゃなかったのと才能の限界を感じてね、足を洗ったんです(笑)。

秋吉 そうだったんですか。選択肢があるなら、ミュージシャンにはならないほうがいいでしょうね。私の場合は、他になかったから(笑)。でも、私はどちらかというと努力型。この歳になると、周囲からアドバイスを求められたりするけど、「(音楽を)止めようか、続けようか」って悩んでいるようだったら、「止めなさい」と言うんです。

カーティス だから、秋吉さんは音楽に対するパッションが強く、ほかの事考えられなかったんでしょ?

秋吉 そうです。

カーティス 僕は、今振り返ってみると、そこまでパッションがなかった。だから僕も、若い人から意見を求められると「とにかく自分がパッションを持てるものを見つけなさい」と、それが見つかったら一番幸せなんです。

秋吉 自分がのめりこめるものを早く、見つけることですね。続けられるか続けられないか、はどれだけ自分がそれを好きかってことですよ。

カーティス ところで、僕は別府で、大昔秋吉さんにお会いしてるんですよ。

秋吉 へー。覚えてないな。私は満州の、遼陽で生まれて大連の学校を出たんです。15歳で終戦になって両親と日本に戻ったんです。それが私の初めての日本。だから人生の初めの15年が満州、次の10年が日本で、アメリカに来てからは50年が経ちました。ですから、私、空襲知らないの。なんか悪いなあと、人から話を聞くと思うんですよ。

カーティス へー。じゃ、日本が一番短いんですね。

秋吉 そうなんですけど、日本人であるという自分の感情とはあんまり関係ないみたいですね。

カーティス ピアノは満州で始めたんですね?

秋吉 はい。私の父は、初め紡績関係の会社の駐在員だったんですけど、独立して小さい会社を始めた。当時、満州には3種類の日本人がいて@北のほうにいた開拓団の人たちA満鉄関係者B個人で仕事してる人たち。私の年齢は、いろんなところに出てるから、ウソついてもしょうがないから言いますけど(笑)、先月の12月12日で78歳になりました。昭和4年(1929年)生まれ。

カーティス 満州からの引揚者って、クリエイティブな人が多いんですね。武満徹、小沢征爾、三船敏郎とかね。それで日本で育った人より大陸的な感覚を持ってるような気がする。


秋吉敏子(ジャズピアニスト)
1929年満州の遼陽生まれ。15歳で日本に引き揚げ。グラミー賞に11回ノミネートされた日本が誇る世界的なジャズピアニスト。代表作として74年発表の「孤軍」、76年の「インサイツ」などは、モダン・ジャズの金字塔として世界中で評価されている。97年紫綬褒章受章。99年「国際ジャズ名声の殿堂(International Jazz Hall of Fame)」入り。2003年11月、30年間続けたJazz Orchestraを解散。原点であるピアニストの活動を再開。2004年から精力的に活動を続ける。現在もNYを拠点に活動中。

秋吉 さ、それはどうか私にはわからないけど(笑)。武満徹さん、ものすごく繊細な方ですからね(笑)で、ピアノやってたんですけど、戦争が激しくなってきて、私も何かお役に立ちたいと思って、陸軍看護婦を志願して4か月教育を受けていた時に終戦になったんです。
満州の女学校時代のピアノの先生は中国人、武蔵野音大出てらっしゃって、だから日本語ぺらぺらでした。10年ほど前に、NHKの番組「わが心の旅」という番組に出演して、遼陽、大連を訪れた時に、スタッフの方が先生を探し出してくださって、奇しくも再会できたんです。その時80歳くらいで日本語まだ忘れておられませんでした。

カーティス 満州で勉強したピアノはクラシックでしょ?

秋吉 そうですよ。それまでジャズなんて全然聞いたことがなかった。終戦で財産全部なくした両親と別府に落ち着いたんです。両親の出身地が大分だったことと、当時、姉が胸を患ってましてね、別府にいいサナトリウムがあったからなんですけど。別府は温泉町でしょ、当時米軍キャンプがたくさんあった。お金がなくなって、ピアノも買ってもらえない私は、ある日、「ピアニスト求む」って貼り紙を見たんです。応募したら、すぐ雇ってくれました。そこはたまたま日本人用のダンスホールで、偶然出会ったのが福井三郎さんという、ジャズレコードのコレクターだったんです。去年もお会いしましたけど、私の恩人のひとりです。ジャズって、貧しい人たちによって培われてきたけど、当時日本じゃ、大体ジャズ愛好者は中産階級より上の人たち、慶応ボーイとかね。この辺りの違いが面白いですね。
 で、福井三郎さんが、私のピアノに注目して下さって家に呼んでくれたんです。聴かせてくれたのが、テディ・ウィルソンの「Sweet Lorraine」。「あーっ、私もあんな風に弾いてみたい」って、もうすっかり感動してしまいました。これがきっかけ、これが最初なんです。だからもし日本人用のダンスホールに雇われてなかったら、そういうチャンスもなかったかなと思う。何もかも偶然ですけど。カーティス 僕がジャズにのめり込んだきっかけも、テディ・ウィルソンの影響。今でも聴くの大好き。
 そうね、ほんとに一城の主という感じで、素晴らしいピアニストだった。つい最近も郊外の仕事場に行く途中、ラジオ聴くでしょ。で、非常によくレコーディングされた曲がかかってたのね。誰かなーって考えて、ベン・ウェブスターでもないし、レスター・ヤングかなあ、でも分からなかった。インプロに入るとその人のクセが出るけど、そしたら実際レスター・ヤングだったのね。これデュエットの曲なんですけど、ピアニストがテディ・ウィルソンだっていうのが分からなかった。普通、テディ・ウィルソンはもっとしなやかで柔らかい感じなんです、レコーディングのせいもあるんだろうけど、ものすごく力強いピアノで、素晴らしいピアニストだなって改めて思いました。

カーティス アメリカに来たころは、まだそんなにジャズの経験なかったの?

レコードを聞いて採譜して覚えた 秋   吉
リズム感なければジャズじゃない カーティス


秋吉 10年です。46年にジャズ始めたでしょ。別府に1年ほどいて、それから福岡のバンドに雇われて福岡で10か月。福岡では大名屋敷を没収したとかいう駐留軍の「将校クラブ」で演奏してました。昼間は、電蓄をかけて、あ、レコードプレイヤーのことです(笑)。ハリー・ジェームスの「It's been a long long time」とかね、これ歌なんですけどウィル・スミスというアルトサックスの人が8小節のソロしているのが大変素敵で。片っぱしから何でもワーっと聴いてた。全部自分で採譜して、覚えたときには自分のものになっていました。貪欲でした。

カーティス 先生はいなかったんですね。

秋吉 いません。自分で聴いて、真似して、とにかくアメリカに来るまで真似ですね。一番最後に私がマネしたのが、バド・パウエル。あとでオスカー・ピーターソンが私のピアノ初めて聴いて、「バド・パウエルだ」ってすぐ言いましたよね。アメリカに来ても、共演者が、私が弾いている耳元で、バド、バドって言うんですよ(笑)。これはちょっとまずいなと思って早く自分のスタイルを作らないと、と思いました。

カーティス じゃ、一番影響を受けたのはバド・パウエル?

秋吉 そうですね。一番伸びるときに影響受けた人というのは、その後自分自身のスタイルを確立した後でも、いつまでも残りますね。ジャズとの出会いは、前にも言った、テディ・ウィルソンの「スイート・ロレーン」という曲だけど、この曲、何故か私のレパートリーにずっと入っていなかった。考えてみたら、ワーっと伸びた時に、影響された人っていうのは、みんなBEBOPプレイヤーなんです。ところがBEBOPプレイヤーはあの曲弾かなかったんですね。そんなことで、私のレパートリーに入ってないんだと思う。

カーティス バド・パウエルの曲聴いてすぐ採譜できるの?それとも何回も何回も聴いて書くの?

秋吉 当時、東京に、ジャズ・コーヒーショップというのが出来始めたんです。狭く小さい店ばかりでしたけど、そういう店に行って何度もかけてもらって書くんです。当時レコードなんて高くて買えませんでしたからね。一番よくしてくれたのは、横浜にあった「チグサ」という店。吉田さんという人がやってた。6人くらい入ったらもういっぱいになるような店だったけど、「すみません、今のところもう一回かけてください」ってお願いすると、吉田さん、気持ちよく「はいっ」って。CDと違ってレコードは減りますから、私のお陰でずいぶん擦り減っちゃったレコードがあるんじゃないかと思います(笑)。でも、逆に先生もいない時代だからこそ、良かったんじゃないかなぁ。

カーティス それそれ、だけど才能がなければ、どうにもならないんだけどね。

秋吉 私は才能よりも、カーティスさんがおっしゃった、パッションだと思いますよ大事なのは。

カーティス アメリカに来たのは20代の初めでしょ?

秋 吉 26歳の時。福岡での仕事のあと東京に出て、52年に「コージー・カルテット」を結成したんです。翌年53年に来日したオスカー・ピーターソン、先月亡くなったけど、彼が私のピアノを聴いて、彼の推薦でノーマン・グラントがレコードを作ってくれました。タイトルは「トシコ」。このことがアメリカの「ダウンビーツ」や「メトロノーム」などのジャズ雑誌に掲載されて、それがボストンのバークリー音楽院の目にとまったんです。今でこそ、バークリーは有名になって、日本人の学生が三分の一近く占めるなんて言われますけど、1945年にローレンス・バークという人が創立した学生数350人足らずのちっちゃな学校だった。だから学校も宣伝材料が欲しかったんですね。なんかいい方法ないかと。それで学校から奨学金をもらって56年に単身渡米したんです。もちろん日本人で初めての学生でした。もし東京に出ていなければ、オスカー・ピーターソンとの縁もなかったでしょうね。そのころ日本にはルイ・アームストロングやジーン・クーパー・トリオとか大物がいっぱい来てたんです。

カーティス でも、こう言っちゃなんだけど、今のバークリーの卒業生たち、みんな同じように聞こえませんか?

秋吉 それは、いかに先生たちが優秀かってことなんですよ(笑)。

カーティス でも面白くないじゃない。

秋吉 そう、芸術ってのはなんでも、ぺったんこぺったんこのお煎餅みたいっていうのは、個性がない。私、聴いてて「ああ、これはバークリー出身者だ」ってすぐ分かる。

カーティス そう分かるんです。テクニックは上手、間違いはひとつも起こさない。だけど何のフィーリングも感じない。それがバークリーのジャズミュージシャンなんだ。

秋吉 ふふふ。教えることが上手な優秀な先生は、才能がない人もある程度までは持っていく。みんな同じようになって出てくるって感じが確かにしますね。とにかく、あの学校が宣伝方法を考えている時に、私のレコードがタイムリーに出たってわけで…。当時は日本人の女性がジャズを演奏するなんてこと自体がなかった。

カーティス でもすごいことですね、ジャズほとんどやってなかった人が、オスカー・ピーターソンの目にとまってレコードが出るなんて。

秋吉 オスカー・ピーターソンは、アート・テイタム(Art Tatum)を猛烈に崇拝してて、テイタムのソロで『エレジー』というのがあるんですが、とにかく素晴らしいとマネしてたそうですよ。

カーティス オスカー・ピーターソンは元々、クラシックでしょ?

秋吉 彼はクラシックのコンサートピアニストのお姉さまから習ったそうで。彼自身は学校へ行かなかったそうですよ。

別府に来て初めてジャズに触れた 秋 吉
テディ・ウィルソンにのめり込む カーティス


カーティス 秋吉さん、ニューヨークにはいつ来たんですか?

秋吉 当時は日本のジャズミュージシャンがアメリカに来るなんて考えられなかった時代だったから、ボストンの学校で勉強してる私は、とにかく覚えたことを日本に帰って仲間や後進に教えなければいけないと思ってた。ところが卒業してみると、自分は何を身につけたんだろう、と自問しても何も出てこない。これではちょっと日本に帰るのはまずいなー、と。それの延長、そのままズルズルと。ニューヨークに来たのもそのころです。

カーティス いつから自分でオリジナルを書くようになったんですか?

秋吉 実を言うと、私、日本にいるころから、書いてたんです。NHKの番組のお仕事を頂いてて、週に2回、夜中に録音するんですね。その時フレンチホーンの音が欲しいと思って、NHK交響楽団のホルン奏者の方にお願いしたんです。だけど彼「僕、即興演奏できません」って尻込みするのを、「いいですいいです。私が書きますから大丈夫」って説得して。もう若くって生意気盛りでしたからね。曲を書くっていうのは、教科書があって教えてくれる人がいれば、早くて便利かも知れないけど、歴史を見たら分かるように、音楽理論は、作曲のあとに出てくるもの。だから現代音楽理論とトレースノートは違います。何が違うって、音楽があって理論がある。理論は後から出てくるもの。関係ないわけです。

カーティス だから僕、言ったように今のミュージシャンは、先に音楽理論があって、それに合わせるような音楽を弾くんですよ。だから面白くない。

秋吉 「音楽」って文字、楽は楽しいっていう文字でしょ、時々ジャズ聞いてて、これじゃ音楽の楽が『学問』の学だな、と(笑)。

カーティス ほんとにそうですね。

秋吉 私、やっぱり歳とったのかなあ。こういうのは分析するにはいいかも知れないけど、音楽とは言えないなーと思っちゃうんです。オールド・ファッションかも知れないけど。

カーティス ジャズカレッジに行ってなくて、ホントの自分のフィーリングを出せる才能ある人は、音楽聴いたらすぐ分かる。

秋吉 私、デューク(エリントン)が言ってたように、ジャズとクラシックのセパレーション、スイング感がないと、魅力がないと思うんです。即興演奏なんていうのは、クラシックだって昔からあったわけで、現代音楽にだってある。昔はサックスとかトランペットとか、音聴いたら、「あっ、誰」ってすぐわかる。これが昔のミュージシャンにはあったけど今はないです。

カーティス 同感です。だから今のミュージシャンにはまずスイングがない。ジャズはリズムにノート(音符)つけるのがジャズでしょ?

秋吉 私もそう思います。

カーティス リズム感がなければ、いくら上手に難しいハーモニーやっても、インプロがうまくても、それはジャズじゃない。今、スイングということを知らないジャズミュージシャンが多すぎる。

秋吉 私、あれはある意味では、ヨーロッパの影響があると思うんですよ。 ずっと前に、ギル・エバンスが、マイルス・デイビスのためにオーケストレーションしました。ギル・エバンスっていう人は、ジャズそのものより、ジャズのオーケストレーションを通してヨーロッパの人との架け橋を作った人だと思う。その意味では、非常に意味のある人だと思うんです。そのために、ヨーローッパの影響ってのはものすごく大きくなってきた。反対にこちらの人で、あ、これユーロピアンだなと思うような人も増えてきた。交流が増えたんですね。(後編を読む)

(構成:塩田眞実)