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先人たちの気高き意志は何処へ? 独立250年の祝賀の裏で
文・内田 忠男(国際ジャーナリスト)
2026年7月3日号掲載|11
250年の独立記念日がやってくる。
私は1975年に1度目のアメリカ暮らしを始めた。翌年が独立200周年だった。全国紙の特派員として様々な祝賀行事を報ずる中で、37歳だった私には50年後の250周年まで自分が生き永らえることを想像できなかった。が、6月9日に日本の名古屋で87歳の誕生日を迎えている。
アメリカの独立は、世界史の流れを変える出来事だった。当時世界最強とされたイギリス本国の枷を逃れて、身分差別のない新たな共和制国家を築くという壮大な実験の始まりだったからである。「独立」というのは、American Revolution=アメリカ革命だったのだと胸を張る友人たちがいた。
あの時代にイギリスの絶対権者、国王に敵対して立ち上がった植民地の人々の不満は、「代表無くして課税無し」のスローガンが伝えている。国政への代表を送れない者は非課税たるべきで、「代表無き者への課税は暴政である」と叫んだのであった。
イギリス政府は、1764年に砂糖法、翌年には印紙法、67年にはタウンゼンド諸法を成立させて植民地への課税強化を打ち出し、植民地では激しい反対運動が起きた。多くは撤廃されるが、茶に対する課税は廃止されなかった。さらに73年の茶法によって東インド会社の茶が安価に流入するようになって植民地の怒りは頂点に達し、同年暮れ、ボストン港に停泊中の東インド会社の船に乱入して積荷の茶を海に投棄する「ボストン茶会事件」が起きた。
翌年、13の植民地代表がフィラデルフィアに会して「大陸会議」ができ、独立への道のりが始まる。現在の州で言えば、ニューハンプシャー、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネティカットのニューイングランド4州と、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア、デラウエアからさらに南のメリーランド、ヴァージニア、南北カロライナ、ジョージアの各州である。

1775年4月18日夜、イギリス軍はマサチューセッツ州コンコードにあった植民地民兵の弾薬庫を押収するため約700人の部隊を派遣した。翌朝レキシントン村に入ると、100人足らずの民兵と銃撃戦になり、数人の民兵が殺された。独立戦争の始まりだった。
6月に開いた大陸会議は、各植民地の民兵を「正規軍」と規定し、55年のフレンチ・インディアン戦争でヴァージニアの民兵を率いたジョージ・ワシントンを総司令官に任命、組織だった作戦行動を行えるようにした。
8年後の独立戦争終結までに延べ25万人が従軍したとされるが、どの局面でも武装した兵士の数が9万人を越えることはなかった。独立戦争による戦死者の数は正確に記録されていないが、大陸軍の死者は2万5千人ほどで、戦死者は8千人、残りは戦病死だったと推計される。
大陸会議は「独立宣言」の準備にも入った。長老格のベンジャミン・フランクリン、第2代大統領となるジョン・アダムズら5人の起草委員会が作られ、当時33歳の弁護士トーマス・ジェファソンに草案の執筆が委ねられた。
ジェファソンは自らが黒人奴隷を使う農場主だったが、奴隷制度を支持する当時の国王ジョージ3世への厳しい非難を盛り込んだ。しかし奴隷労働を必要とする南部諸州の代表が強硬に反対したため、この条項は削除された。
大陸会議は、ほぼ1年後の76年7月2日に草案を採択し、4日に公布、これが独立記念日になっている。
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「我らは以下のことを自明の真理と考える。全ての男 (人民)たちは平等に創造され、奪うことのできない権利を与えられている。そこには生命、自由、幸福追求の権利がある。これらの権利を保障するために、政府が男たちの間に設けられ、統治されるものの同意が正当な力の源泉となる。いかなる形の政府であれ、これらの目的を壊した時には、それを変更または廃棄して新しい政府を樹立するのが国民の権利である」
宣言では、国王ジョージ3世の弾圧行為を数多く列挙しているが、その前段に掲げられたのがこの文章である。植民地が独立を選ぶことを正当化するために、フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーが唱えたばかりの社会契約説が見え隠れしている。そこに書き込まれた基本的人権も当時の世界では極めて新鮮なものだった。私などは中学校時代に、創造主により与えられ、誰にも奪われることのない平等と権利で、「天賦不可譲の人権」と教わった。そしてこの思想こそが、市民革命である1789年のフランス革命につながり、170年後の日本国憲法にも受け継がれている。
独立は宣言したものの、ここで一気に建国できたわけではなかった。独立戦争は、81年10月のヴァージニア州ヨークタウンの戦いで、イギリス軍を降伏させたのを挟んで、83年9月のパリ条約による正式の休戦まで続いた。大陸会議から名を変えた連合会議が、この条約を批准したのは84年1月である。
連邦憲法が、連合会議の決議に基づく特別会議で採択されたのは87年9月で、憲法に基づく合衆国政府が発足したのは89年初めのことであった。
独立宣言前後から、正式な国家の発足までに時間がかかったのは、13の植民地が個々の主張に固執したこともあるが、これに関わった人々が、それぞれに高邁な理想を現実化するために安易な妥協をしなかったからでもある。
これまでの歴史になかった真の共和制国家を実現することに注ぎ込まれた意志と知恵と労力は如何ばかりであったかと想像する。


アメリカ建国250周年には二つの主要プロジェクトが存在している。「America250」(左)はオバマ政権の2016年に議会が設立した超党派の公式記念プロジェクト。一方「Freedom 250」(右)は2025年にトランプ政権が立ち上げたホワイトハウス主導の記念事業だ。政治的分断が続く中、どちらのロゴや事業を前面に出すかが組織や個人の姿勢を示すものとして受け取られることもあり、しばしば「踏み絵」のような側面を持つと指摘されている。
250年を経た今、科学技術の進歩は凄まじいばかりで、当時の生活を再現することなど不可能だが、人間の知恵がこの間にどれほど進歩したかと言えば、答えは空ろにならざるを得ない。
現在の大統領を見るが良い。自らに対する批判は ”fake news” と排除し、自身の発言はしばしば差別と人権無視にまみれ、ウソも半分以上だ。自身とファミリー企業の利益が最優先。国際社会に向けては、”America First” の旗印で旧来の秩序を片端から踏み潰し、法の支配を危うくさせ、国際協力への投資を根こそぎ無きものにする。
その上で、どこまで本気かはともかく” I am the greatest president in 250 years” などと口にする。
250年の誇り高き年が、最も恥ずべき年になるかもしれない。(敬称略)