2023年5月26日号 Vol.446

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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中東和平の歴史的握手
オスロ合意を横取り

1993年9月13日、ホワイトハウスで「パレスチナ暫定自治協定」が成立した瞬間(左から)ラビン首相、クリントン大統領、アラファト議長 Yitzhak Rabin, Bill Clinton and Yasser Arafat at the Oslo Accords signing ceremony on 13 September 1993. (Photo public domain)

1993年9月13日のことだった。

ホワイトハウスからの中継映像に、イスラエルのイツハク・ラビン首相とパレスティナ解放機構PLOのヤーセル・アラファト議長が歴史的な握手をし、その間に立って手柄顔とでも言おうか、誇らしげな笑顔で二人に話しかけるクリントン大統領の姿が映し出された。見ていた私はムシズが走るような不快感を覚えたのであった。

長く対決を続け、おびただしい量の血を流してきた(今も流し続けている) イスラエルとPLOの間で「パレスティナ暫定自治政府に関する原則を記した宣言」に署名がなされた瞬間だった。

この宣言は、「オスロ合意」の名でも歴史に記録されているように、ノールウエイ外務省の仲介で難しい秘密の交渉が続けられた結果生まれたものだった。要約すれば|
①イスラエルを国家として、PLOをパレスティナの自治政府として相互に承認
②イスラエルは占領地域から軍隊を暫定的に撤退、5年にわたり自治政府による自治を認める。その5年間に、国境線の画定、エルサレムの帰属、難民問題など、いわゆる最終地位交渉を完結する
|というもので、両者の秘密対話の開始から合意にこぎつけるまで、ノールウエイ政府が独自に並々ならぬ力を尽くしたものであった。つまり、この「歴史的握手」はノールウエイ政府の功績であって、クリントンがアメリカの大統領として何をしたわけでもない。署名式の開催という形で手柄を横取りしたのであった。

パレスティナ問題は、第2次大戦直後のユダヤ人国家イスラエルの建国時点から今日に至るまで、アラブ世界との間で激しい対立の根幹となってきた。

1947年11月、国連総会は「パレスティナ分割決議」を採択した。第1次大戦後にオスマントルコの領地からイギリスの委任統治となっていたパレスティナの土地をユダヤ人とアラブ人の2つの新しい国家に分け、エルサレムだけは国際管理下に置くとしたものだが、土地の分配率をユダヤ国家56・5%、アラブ国家43・5%としたことにアラブ側が強く反発した。

第2次大戦中、ナチス・ドイツの大虐殺にあったユダヤ人だが、ユダヤ人に対する差別は、遠く1世紀にローマ帝国との戦いに敗れた結果、父祖伝来の土地を追われて離散と放浪を余儀なくされ、やがて欧州各地に定住した頃から様々な形で続いてきた。19世紀には、ロシア帝国がナチス同様の虐殺の挙に出たこともあって、それ以降、民族発祥の地であるパレスティナのシオンの丘に帰ろうという「シオニズム運動」が起きていた。

とはいえ、2千年近くも留守にしていたユダヤ人たちに故郷の地も決して優しくはなかった。国連決議の時点でユダヤ人が入植できたパレスティナの面積は7%に過ぎなかったとされる。そのユダヤ人に過半の領地を与えるという国連決議が採択された裏には、長きにわたってユダヤ人を差別してきた欧州の有力な国々の原罪意識があったとする見方が多い。国連創設からまだ日が浅く、加盟国も第2次大戦の戦勝国だけで現在(193)の3分の1にも満たなかった時期の決議には、これら欧州有力国の意思が強く反映されたのだった。

決議を受けて、翌48年5月にユダヤ人だけがイスラエルの建国を一方的に宣言、それに反発するアラブ諸国との間で第1次中東戦争が起きたが、建国の意欲に燃え、欧米諸国から強力な支援を受けたイスラエル軍の敵ではなかった。戦争はその後も、世界中を第1次石油危機に巻き込んだ73年10月の戦いまで4度にわたって勃発したが、67年6月の第3次中東戦争では、イスラエル軍がわずか6日の間に、エジプトからガザ地区とシナイ半島全域、ヨルダンから東エルサレムとヨルダン川西岸全域、シリアからゴラン高原……という広大な領地を奪って占領した。

さすがに見かねた国際社会が、国連安保理で242決議を全会一致採択、占領地からの完全撤退に加え、域内諸国の主権・領土の保全と政治的独立、武力による威嚇や行使を受けることなく安全かつ平和に暮らす権利の尊重、難民問題の解決……などを義務付けたが、イスラエルはこれを完全に無視黙殺した。78年のエジプトとの平和条約でシナイ半島の返還に応じた以外は、78年にゴラン高原の併合を宣言、88年にはヨルダンにヨルダン川西岸の統治権放棄を宣言させるなど、国連憲章が禁止する武力による領土の拡張を実現していた。

パレスティナに和平をもたらそうと行動を起こしたのは、クリントン政権の前、ブッシュ(父)政権で国務長官を務めたジェームス・ベイカーだった。

冷戦終結後の新しい世界秩序の構築にあたり、中東和平の実現が喫緊の課題とされた。ベイカーは、89年5月、米イスラエル公共問題委員会AIPACで行った演説で、イスラエルに入植地を拡大する拡張政策の放棄を呼びかけたのを皮切りに、クウェートに侵攻したイラク軍を追い払った湾岸戦争後の91年には、中東地域を往復するシャトル外交を8回にわたって行い、新思考外交を表明していたゴルバチョフのソ連ともはかって、同年10月末にマドリッドにイスラエル、シリア、レバノン、ヨルダン、パレスティナの代表を招いて「中東和平会議」を開催した。

会議では、パレスティナの和平実現に向け、2当事者または多国間の協議を始めることで合意はしたが、具体策は決まらなかった。アメリカとともに仲介役を果たそうとしたソ連は、その年の末、国家としての存在を消滅した。

こうした状況を見て密かに動き出したのがノールウエイだった。ユダヤ人差別の実績はなく、北海油田が開発されたためにアラブ産油諸国とも対立関係はない。その立場を生かして密かに仲介役に乗り出したのだった。「火中の栗を拾う」行為だけに、初めはイスラエル、PLO両当事者に警戒感が強かったが、粘り強い呼びかけで交渉のテーブルを作ることに成功、さらに粘り腰で交渉をリードしていった。93年8月になって、PLOアラファト議長はイスラエルの国家承認と暴力の排除に合意、イスラエルもシモン・ペレス外相がPLOをアラブ人側の代表として認め、ガザ地区とヨルダン川西岸の一定地域で暫定自治を認めることにも合意。同月20日、ついに覚書の仮調印にこぎつけたのだった。この間、アメリカが交渉に介入、もしくは積極支援した形跡は全くなかった。

ワシントンでの “横取り署名式”でのクリントンのスピーチを読み返すと、例によって自分の知識をひけらかすように中東和平の歴史をクドクドと述べたうえ、ブッシュ前大統領とノールウエイ政府の功績には短か過ぎる敬意を表しただけだった。

イスラエルの国連軽視は242決議の無視だけではない。核兵器拡散防止条約NPTには頭から参加せず、自ら核武装しているし、総会決議が国際管理としたエルサレムを「永久の首都」としている。アラブ人の土地であるべきヨルダン川西岸にもユダヤ人の入植地を建設している。アメリカはじめ国際社会は核武装を止めようともせず、トランプ政権に至っては大使館をエルサレムに移転してイスラエル政府に迎合した。こうしたイスラエルの拡張政策と、それに対する大国の不公平な振る舞いこそがアラブ人たちに不満を植え付け、和平の障害となっているのは間違いない。
(一部敬称略、つづく)


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