2023年4月28日号 Vol.444

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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冷戦後の国際秩序を討議|G7
繰り返される人種差別|ロス暴動

第17回G7サミット代表メンバー(1991年7月15日撮影)(George Bush Presidential Library and Museum)

夕方のネットワークニューズのアンカーを務めた時代に海外に出たのは、前回まで述べたハワイのパールハーバー以外に、1991年のロンドン、92年のミュンヘンでのG7サミット(いずれも7月)があった。

日本からはロンドンに海部俊樹、ミュンヘンに宮沢喜一の両首相が出席したが、サミットでの存在感は薄かった。

両年とも、冷戦終結後の新しい国際秩序に向けた討議が中心になった。ロンドンでは、民主主義、人権、法の支配、健全な経済運営を確保していくための世界的パートナーシップの構築が強調された。

ミュンヘンでは、新たなパートナーシップ形成を世界に呼びかける中で、変化する国際情勢に対応し平和と安全を維持する国連の役割強化の必要性が論議され、日本の北方領土問題がグローバルな重要性を持つG7共通の関心事項であることも確認された。

第18回G7サミット代表メンバー(1992年7月6日撮影)(George Bush Presidential Library and Museum)

ロンドンにはソ連の初代大統領になっていたミハイル・ゴルバチョフ、ミュンヘンには前年末のソ連解体で、その国際的地位を継承したロシア連邦の大統領ボリス・エリツィンが招かれ、本筋の会議終了後に会合が持たれた。冷戦終結で超大国の座を降り、社会主義から資本主義への改変に直面していたソ連・ロシアには、西側先進国であるG7諸国から同情に近い感情が寄せられ、積極的に協力する姿勢が示された。長く対立関係にあったソ連・ロシアのリーダーとの会合も当たり前のような雰囲気で、新時代の到来が強く感じられた。膠着状態にあった北方領土問題に突破口が生まれるかもしれないとの期待感さえ抱かせたものだったが、プーチンのような権威主義で国際秩序に挑戦する身勝手な独裁者が出現するとは誰も思っていなかった。

暴動発生当時、ロサンゼルス市内に現れた「FUCK LAPD! No Justice x No Peace」と書かれた落書き(1992年4月撮影) (Photo by Glenn Gilbert / CC 表示-継承 2.0)

もう一つ、92年4月末から5月初めにかけて起きたロサンゼルス暴動への出張取材もあった。

暴動の発端は、ロドニー・キングというアフリカ系男性が前年3月にロサンゼルス市内を運転中に速度違反で逮捕された際、警官の指示に従わず反抗的な態度をとったとの理由で、4人の警官から激しい暴行を受けた。この光景を、近隣住民がビデオ映像に収めており、それが全米に放送されたことだった。映像には、キングが両手をあげて地面に伏し無抵抗だったのに警棒などで乱打される有様が鮮明に映っていた。キングはアゴと鼻の骨を砕かれ、眼球破裂、腕と足の骨折など重傷を負った。

LAPD(ロサンゼルス市警)の警官4人は暴行容疑で起訴されたが、その公判で、キングが2年前に起こした強盗事件の懲役刑から仮釈放中だった上に、飲酒運転でもあったことなどが明らかにされ、1年余り後の92年4月29日、ロサンゼルスの北に隣接するヴェンチュラ郡上級裁判所の陪審団は警官らに無罪の評決を下した。

このニューズが報じられると、アフリカ系社会に憤激が広がり、一部は暴徒化して警察署などを襲撃、かつて「ワッツ暴動」が起きたロサンゼルス市街のサウスセントラル地区では、商店への放火や略奪などが始まった。初の黒人市長だったトム・ブラッドリーは非常事態を宣言、カリフォルニア州のピート・ウイルソン知事も2千人の州兵派遣を決めた。少し遅れてブッシュ大統領(父)も陸軍と海兵隊から4千人を派遣して収拾にあたった。

日本時間では、発生が大型連休入りした後の4月30日で木曜日だった。週末を迎えたところで急ぎロサンゼルスに飛ぶ。同行するのは番組のディレクター1人。LAには5年も住んで車で走り回っていたから方向感覚と土地勘はある。現地で雇うカメラマンと音声技術者がいれば仕事はできるという算段だった。

ただ、さしも大規模な暴動も3日目には沈静に向かい、私たちが現地入りした時には終わっていた。その間に死者63、負傷者2383、逮捕者1万2千人、火災も3600件発生して1100棟の建物が破壊され、被害総額は10億ドルに上るとされた。

まず、暴動の規模をつかむためにヘリコプターをチャーターして空から被害の跡をたどった。やはり南西部の市街地が被害を受けていたが、大火が発生したわけではないので、迫力ある映像が撮れない。そこで今度は地上から、被害の中心地に向かう。

「くたばれLAPD」と言った落書きが大書され、市内には依然不穏な空気が漂っていた。オリンピック通りなど、かつては日系社会の「うわまち」と呼ばれていたあたりに壊された商店が目立った。看板や内部の状況から多くが韓国系の経営だと知れる。LAPDに聞くと、被害額の半分弱が韓国系の食料品店、雑貨店だったという。周辺の人々は、80年代から急激に数を増やした韓国系と、アフリカ系の対立が激しかったという。十分な資金を持たずに移住してきた韓国人たちが、賃料の安い地域を選んで店を開いていったが、その事業が成功すると、失業者が多く経済的に恵まれないアフリカ系の怨嗟の的となり、普段から互いに反目していたというのだ。

韓国系経営者の中には、正当防衛として保管していた銃を撃ちまくって暴徒に対抗した人も少なくなかった。話を聞くと、「奴らは、働きもせずに始終不平ばかり言っている。そんな連中に負けてたまるか、という気で撃ちまくった」という。

後に専門家による追跡調査で、「アフリカ系が多く住むエリアで成功ぶりが目立つ店が単に狙われただけで、襲撃に参加した相当数が、中国人や日本人、フィリピン人などの店を襲ったと信じていた」とされ、韓国系とアフリカ系の対立が原因ではなかったと結論された。

無罪評決を受けた警官らには、連邦司法省が人権を著しく侵害した公民権法違反容疑で再捜査に乗り出し、暴動から約1年後の93年4月に現場を指揮した巡査部長と実行犯の巡査が有罪となり、無罪となった2人も含めてLAPDが懲戒解雇した。

ただ、警官による過剰な暴力は、その後も切れ目なく続いて、アメリカの宿痾のような様相を呈している。中でも全米の関心を呼んだのは、2020年5月、ミネアポリス近郊でジョージ・フロイドというアフリカ系男性が偽ドル紙幣を使った容疑で逮捕された際、手錠をかけられた上に頚部を白人警官のヒザで強く押さえつけられ窒息死した事件だ。その一部始終が通りがかりの一般人が携帯電話で撮影した動画に記録され、メディアを通じて広く公開された。「I can't breathe=息ができない」と繰り返すフロイドの頭部が8分余も地面に押し付けられていた。

当然、怒りの声が広がり、抗議の波が各地に拡散したが、そこでスローガンになったのが「Black Lives Matter=黒人の命を大事にしろ」という言葉だ。2013年ごろから起きた黒人への暴力や構造的人種差別の撤廃を訴える運動をあらわす言葉BLMが、全米で抗議行動のシンボルとなった。 (一部敬称略、つづく)


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