2023年03月31日号 Vol.442

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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奇襲開戦に追い込んだ
巧妙周到な日本包囲網

真珠湾攻撃の翌日(1941年12月8日)、大統領執務室で対日宣戦布告に署名するローズベルト大統領(Photo :Franklin D. Roosevelt Presidential Library and Museum/ NARA)

Yesterday, December 7th, 1941—a date which will live in infamy—the United States of America was suddenly and deliberately attacked by naval and air forces of the Empire of Japan.

これは真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・D・ローズベルト大統領(FDR)が連邦議会の両院合同会議で行なった演説の冒頭である。「屈辱の日」とすることで、日本(ジャップ)への憎しみを煽り、Remember Pearl Harborの合言葉を生み出した。

私は真珠湾攻撃が日本の騙し討ちであったか、という問いに、奇襲攻撃ではあったが、騙し討ちではなかった、と答えてきた。

なぜかといえば、太平洋戦争は、アジアに植民地を展開していたアメリカ・イギリス・オランダなどの欧米諸国が差別意識もからめて日本包囲網(ABCDライン)を敷き、日本の資源路を絶って戦争に向かわざるを得ない状況に追い込んだ結果だったからである。

中国大陸への日本の侵略ばかりが非難されたが、欧米諸国とロシアも、中国大陸の利権への野心は旺盛で、仮に日本が侵略しなかった場合、中国の主権と国民の利益が安泰だったかといえば甚だ疑問である。欧米諸国は、極東の成り上がりの島国である日本が列強に伍して中国領土の切取り競争に参加しているのが「不都合」「不愉快」で「分を超えた所業」と考えており、そこに日本の好戦的な軍部専制への非難が加わったのであった。

真珠湾攻撃について言えば、資源の取得で追い詰められた日本が、軍備・国力ではるかに強大な国を相手に戦うとすれば、尋常な手段で勝味のないことは明らかで、常識を超えた第一撃で損害を与え、相手がひるんだ隙に資源の供給源となる南方地域を早期に占領しようとするのは当然の戦略でもあった。

加えて、日米交渉に臨んでいたアメリカは、日本の外交暗号を解読していたから、厳しい経済制裁がやがて日本に戦争を決断させるであろうことを十分予知していた。苦し紛れに戦争を仕掛ける側が一種の奇襲を仕掛けるのは古今東西、歴史の必然である。にもかかわらず、FDR以下のアメリカ政府首脳は、奇襲攻撃に然るべき対応策を取ろうとしなかった。日本に第一撃をさせ、それに反撃するという理由で、日本の同盟国であるドイツとの欧州戦線も含め、大手を振って参戦が可能となる……。

私は安っぽい利己的な愛国心で言っているのではない。公刊されているさまざまな資料が証明しているからである。

中でも第一級の資料は、歴史学者チャールズ・ビーアド(Charles A. Beard)が著した President Roosevelt and the Coming of the War, 1941――Appearances and Re-alities(Yale University Press, 1948)という長い表題の大冊である(邦訳は2011年に『ルーズベルトの責任――日米戦争はなぜ始まったか』(上下巻、藤原書店)が出版されている)。

同書は開戦直前の首都ワシントンの情勢について、ヘンリー・スティムソン陸軍長官の日記から抜粋して次のように書いている。

「11月7日 大統領はアメリカが日本を太平洋南東部で攻撃した場合、国民が政府を支持するかどうかの判断を閣僚全員の投票に付し、閣僚は、国民は我々を支持するだろうとの見方で全員一致した」

「11月25日 大統領、ハル(国務)、スティムソン(陸軍)、ノックス(海軍)各長官、マーシャル陸軍参謀総長、スターク海軍作戦部長のいわゆる戦時内閣がホワイトハウスで会議、大統領は合衆国が早ければ翌月曜日の12月1日にも日本に攻撃される公算が高いとの見解を示した。次に会議が直面した問題は、どのようにして、我が国にさほど甚大な危険を招くことなく、奴ら(日本)が最初に発砲するよう誘導するか、だった」

「12月7日 午後2時頃、大統領から日本の真珠湾攻撃について聞き、ジャップがハワイで我々を直接攻撃したことで問題そのものを解決してくれた……私が先ず感じたのは安堵だった。優柔不断の時は終わり、我が国民が一致団結する形で危機が訪れたのだ……これまで愛国心に欠ける人間が煽ってきた無関心と分裂が非常に残念なものだったのに対し、この国が団結したとなれば恐れるものは何もない」

そしてビーアド自身がこう書いている。「1941年11月中旬に大統領が政権の側近に非公式に話していた内容が1940年(の大統領選挙中に)に公に宣言していた内容=皆さんの大統領がこの国は戦争をしないといっているのです=とは違ったということだ」

FDR以下の政府首脳は戦争をしたがっていた。ナチス・ドイツの激しい攻勢で欧州大陸は席巻され、苦戦を強いられているイギリスを助けなければいけない。だが、国内世論は参戦に否定的だった。世界大恐慌を脱して空前の軍需景気に沸いているアメリカは同盟国に必要な兵器・弾薬を送れば良い、この上、若者の血を流すことはない、それこそがアメリカの国益だ、という考えが強かったからだ。FDRがアメリカの歴史にない「3選」に挑んだ40年大統領選挙で、共和党は「大統領はこの国を戦争に導こうとしている」と批判した。それに対しどう答えていたか、ビーアドの書はこう述べている。

「大統領は共和党の非難は誤りだと断言し、自分は平和への道筋を辿っていると主張した。10月30日、ボストンで次のように宣言した。<これはかつて述べたことだが、何度でも何度でも言おう……皆さんの息子が外国のいかなる戦争にも送り込まれることはない>。11月2日、バファローでの公約はさらに簡潔だった。<この国の大統領が、この国は戦争に突き進まないと言っているのだ>……この選挙戦で、現職の大統領が国民に惜しみなく捧げた反戦の誓いは、選挙で勝利を収めた後に厳守されるべき具体的な約束だった。これらの誓いは、翌年以降の外交を遂行するにあたり、大統領に課された明確な義務であった」

しかしFDRは、日米交渉で日本を戦争に仕向けるよう国務長官以下に指示していた。「第一撃を日本にさせるのだ。そうすれば我々は労せずして参戦できる。被害は軽微な方が良いがね」――。

中国・仏印からの日本軍の全面撤兵を条件とし、事実上、アメリカが日本に突きつけた最後通牒とされるコーデル・ハル国務長官による文書(ハルノート)は、閣僚にも連邦議会にも、はかられること無く発せられた。「日本が飲むはずがない」のは承知の上である。日本に「開戦」以外の道を閉ざしたのであった。

「日本の息の根を止める兵器を開発しろ」――原爆の開発を命じたのもFDRだった。戦争が終わった直後、45年8月31日付のニューヨーク・デイリー・ニューズは、次のような論調を載せた。

「もちろん、ハルも悪かった、彼らが悪かったのは、ワシントンの体制そのものが悪かったからだ。そして体制が悪かったのは、それがたった1人の男、つまりFDRを中心とし、彼に支配されていたからだ。大統領こそが陸軍省であり、海軍省であり、国務省だったのだ」
むろん私は、日本に戦争の責任がないなどと言っているのではない。無謀な戦争に突き進んだ日本軍部の罪は大きい。その罪は、東京国際軍事裁判などで厳しく追及された。追及されていない側にも、大きな責任があったということである。(つづく)

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