2023年03月17日号 Vol.441

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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半世紀前の敵意
真珠湾攻撃を振り返る

日本軍の攻撃を受け炎上、沈没した戦艦アリゾナ(USS Arizona, BB-39)は、現在も沈没状態で静態保存されている

1991年は太平洋戦争の発端となった旧日本海軍による真珠湾攻撃から半世紀を迎える節目の年だった。「大本営陸海軍部12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」とあったように、日本時間では1941年12月8日・月曜日未明の開戦だったが、19時間の時差があるハワイでは日曜日の7日朝の攻撃だった。

そこでテレビ朝日は日本で開戦記念日に当たる12月8日にハワイからの生中継で特別番組を組んだ。91年のこの日は日曜日だったが、ハワイ時間では土曜日の7日。私がアンカーを務めていた夕方のネットワークニュースは、土・日曜日が休みなので、土曜日夜のフライトで飛び立てば、その日の朝にホノルルに着いて、夜に特番をすませ、日曜午前に現地を飛び立てば、月曜日の定時番組前に東京に帰ることができる。定時番組を休まずにすませるツナ渡りの強行日程だったと記憶する。

爆沈した戦艦アリゾナの上に作られた記念館に仮設のスタジオを開き、CNNで軍事関係のリポートをしていたウルフ・ブリッツァー氏を招いて隣に座ってもらい、番組を進行した。

ここで、真珠湾攻撃のあらましを振り返っておこう。

「大東亜共栄圏」を呼号して、中国大陸から仏印(インドシナ)へ軍事侵攻を拡大する日本に対し、アメリカのフランクリン・D・ローズベルト大統領(FDR)は鉄や石油の禁輸など厳しい経済制裁を連発、植民地宗主国のイギリス、オランダと結んで、無資源国日本を追い詰めて行った。その結果として、日本は米英との戦争を決断、その第一矢が真珠湾への奇襲攻撃だった。

アメリカとまともに戦争をして勝てるわけがないと考えていた連合艦隊司令長官・山本五十六大将が案出したのは、航空母艦を基幹とする機動部隊を遠路ハワイ沖に送り込み、艦載機で真珠湾に集結するアメリカ太平洋艦隊の主力を撃滅する――これにより時間を稼いで米軍の反攻を遅らせ、その間に講和工作を急ぐ――という考えだった。

41年11月1日、東條英機内閣は対米開戦に踏み切る「帝国国策遂行要領」を閣議決定、11月5日の御前会議で承認された。そこに向けて連合艦隊は赤城・加賀・飛龍・蒼龍・翔鶴・瑞鶴――航空機を約70機ずつ搭載できる精鋭空母6隻を基幹に、高速戦艦比叡・霧島と重巡洋艦2、軽巡洋艦1、駆逐艦9隻からなる機動艦隊を編成、密かに日本本土を出港して北方領土のエトロフ島単冠(ヒトカップ)湾に集結した上、11月26日北太平洋をハワイ沖に向かわせた。日本時間12月2日午後5時30分には、その機動艦隊に向け大本営から「ニイタカヤマノボレ1208=12月8日に真珠湾を攻撃せよ」の隠語電が放たれた。

12月6日にはアメリカの首都ワシントンの日本大使館に向け「帝国政府の対米通牒覚書」と題した長文の暗号電が発信される。アメリカ側は日本の暗号をすでに解読しており、陸軍情報部が同日夕には翻訳文を大統領のもとに提出した。読み終えたFDRは「これは戦争を意味している」と叫んだと記録されているが、そこから先の行動はとらなかった。

12月7日、何も知らされていない真珠湾のあるハワイでは、平穏な日曜日の朝を迎えていた。人々は教会に向かい、真珠湾在泊の太平洋艦隊でも乗組員の半数が退艦する「半舷上陸」の態勢がとられていた。しかし、その北方、約100浬に到達していた日本艦隊は繁忙を極めていた。ハワイ時間午前6時30分、第一次攻撃隊が空母を発艦する。零式艦上戦闘機43機、99式艦上爆撃機51機、97式艦上攻撃機89機――当時としては世界最先端の性能を誇った183機が飛行甲板を飛び立ち、大編隊を作った。

戦闘機は編隊の掩護が主任務で、基地航空隊が迎撃してこなければ、地上に駐機している米軍機を機銃で攻撃する。艦上爆撃機は急降下して低空から爆弾を投ずる。艦上攻撃機は40機が魚雷を抱いて軍艦を狙う。日本海軍は、深度の浅い真珠湾に適合する新型魚雷を開発して装備していた。雷装しない攻撃機は水平飛行のまま爆弾を投下する。

午前7時49分、日本海軍の攻撃隊は真珠湾上空に到達、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄中佐が麾下の編隊全機に無電で「全軍突撃」を命ずる「ト」連送を発し、3分後には機動艦隊の旗艦赤城に「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する「トラトラトラ」を発信した。

陸上の米軍が攻撃に気付いたのは7時55分、ホノルル海軍航空基地の作戦士官ローガン・ラムジー中佐が急降下してきた爆撃機の側面の日の丸を見て、当番兵に平文のまま以下の電文を打つよう命じた。

airraid on pearl-harbor x this is no drill

「x」は注意喚起のための記号で、「真珠湾が攻撃されている、これは演習ではない」――。
攻撃はヒッカム航空基地の爆撃に始まり、真珠湾の艦艇群に移った。最初の魚雷が戦艦ウエストヴァージニアに命中、オクラホマ、メリーランド、アリゾナ、テネシーそしてカリフォルニアと、戦艦群に次々命中していった。魚雷を受けて傾いたアリゾナには、その後の水平爆撃で800キロ徹甲爆弾が命中した。1発目が4番砲塔側面、2発目は2番砲塔横で、これが前甲板を貫いて火薬庫を誘爆させ、「150メートルに及ぶキノコ雲が立ち上がった」とされている。

「第二次攻撃ノ要アリト認ム」――淵田中佐からの要請を受け、午前7時45分に零戦36、艦爆80、艦攻54機の170機が発進、8時55分には真珠湾上空に達して攻撃を開始した。第一次攻撃が終わって第二次攻撃が始まるまでの30分足らずの間に陸上の米軍は高射砲陣地を構築して分厚い対空砲火の体制を敷いた。このため、日本軍の被害は第二次攻撃でほぼ倍増したが、それでも損失したのは戦闘機9、艦爆15、艦攻5の計29機で、出撃した353機の8%に過ぎず、戦死者も搭乗員55人(他に特殊潜航艇の乗組員9人)に止まった。
これに対し米軍の損害は、沈没した戦艦4隻、戦艦の中小破4隻の他、損傷艦9隻、航空機の損傷341機、2334人が戦死(他に民間人の死者37)した。

番組に先立って聞いたアメリカ市民の中には「キミたち日本人は広島・長崎の原爆被害ばかり言いたてるが、ここでは3千人(ママ)もが命を落としている。それも騙し討ちだぞ」と詰め寄る人もいた。

後に、政治外交など硬派のアンカーとなったブリッツァー氏は、こうした「半世紀前の敵意」は問題とせず、「今こうしてあなたと私がここに並んでいる、国としてのアメリカと日本も盟友関係にあるのを見れば、そうした声に耳を傾ける必要はないと思う」と断言していた。ただ、私には「騙し討ち」という見方を認めるわけには行かない確信があった。その詳細は次回に述べる。(つづく)

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