2023年01月13日号 Vol.437

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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バブル経済の終焉
あっけなく終わった宴

日本のGDP成長率 (22 November 2022) Own work, Data from OECD Quarterly National Accounts / Author:Yuasan (CC-0)

バブル経済の終焉について筆を進めたい。

前にも書いた通り、私が1回目13年間の米国生活から帰国して東京で番組を始めた1988年秋には絶頂期にあったバブル経済――翌89年暮れ、東京証券取引所の大納会(年末最終取引)で日経平均が38957円の史上最高値をつけ、90年元旦の『内田忠男モーニングショー』に招いた経済評論家・長谷川慶太郎氏は「松の内にも4万円を抜け、まだまだ上がる」と述べていた。けれども「アワははじける」の原則通り、宴の終わりはあっけなかった。

株価は年初から下落に転じ、10月1日には一時2万円を割り込む大暴落で、この年の終値も1万5千円を超す4割近い下げ幅、23646円となった。

私が夕方ニュースのアンカーに転じた91年4月には土地の価格にも陰りが表面化し、「バブル崩壊」は動かせない現実となっていた。以後30年余り、日本経済は好況に沸いたことが一度もない。いま40歳以下の日本人は自らの肌でホンモノの好景気を実感したことのない世代である。
では、バブル経済なるものがどのように起きたか。

遠因となったのは、この連載の44回目で書いた85年9月の「プラザ合意」だった。アメリカの貿易赤字削減のため、「ドルレートを下げるための国際協調」と言いながら、日本の輸出量縮小が目的の「円高」を実現するために仕組まれたG5(米日独英仏)協議だったが、日本経済の強さに有頂天になっていた中曽根康弘首相と竹下登蔵相のコンビは唯々諾々と応じ、その結果急激な円高が起きた。1ドル240円前後だった円レートが年末には200円、1年後には150円まで急伸した。輸出依存型の日本経済は当然のことながら打撃を受け、「円高不況」と言われた。87年2月にパリのルーブル宮殿で開催されたG7蔵相・中央銀行総裁会議で、急激なドル安に歯止めをかける「ルーブル合意」が成立したが、各国の協調が不十分でドルの下落を止めることができず、88年には120円台まで円高ドル安が進んだ。

「円高不況」はウソではなかったが、大きな被害を被ったのは資本装備の薄い中小零細企業で、大企業は高度成長の過程でしっかり体力をつけ、為替変動への抵抗力もついていた。製造業分野では、幾層にもわたる下請け供給網が整備され、調達価格を下げることで為替変動へのクッションとする企業が多かった。円高などの被害を下請け中小企業にシワ寄せするシステムが、大企業の円高被害を緩和させたのである。

日銀は当初こそ傍観していたが、86年から金利の引き下げに転じ、5回の利下げで公定歩合は2・5%まで低下した。政府は内需主導の経済成長を促すため公共投資を拡大させる。さらに89年には、所得税の国税・地方税を合わせた最高税率を88%から75%に引き下げ、富裕層の手取り所得を急増させた。要するに、円高不況対策とされた政府・日銀の政策で、おカネが市場に溢れたのであった。

大企業は80年代半ばごろから、銀行借入れに頼るばかりでなく、エクイティ・ファイナンス(新株発行による資金調達)という方策に行き着き、そこで得た資金をタップリ溜め込んでいた。一方、大企業への貸出しで稼いでいた銀行は資金需要が急速に減少し、85〜90年度の5年間に手元資金量が90%も拡大、新たな融資先を見つけることが喫緊の課題だった。

こうした状況から、銀行はじめ金融機関の融資が不動産に集中し始める。資金がだぶついた市場では、「カネにカネを稼がせる」投機が盛んになった。「土地の値段は決して下がらない」という土地神話が勢いを持ち、企業、個人を問わず、余剰資金を転売目的の不動産投資に向けるケースが急増して地価は急騰した。「東京23区の地価でアメリカ全土が買える」といったバカな会話が当たり前のように飛び交った。事実、90年末の日本の土地資産は約2460兆円と推定され、アメリカ全土の土地価格の4倍になった。

投機熱はさらに高まり、高い地価で買った土地を担保にまたカネを借りる、そのカネでまた土地を買うといった、投機が投機を呼ぶ連鎖が常態化し、銀行などの金融機関はそれに歯止めをかけるどころか、先頭に立って奨励した。通常、土地を担保に融資する場合、評価額の70%が上限とされたが、この時代には、土地のさらなる値上がりを視野に、銀行が過大な貸付けに応ずことが少なくなかった。全国銀行の貸出しは85年3月末から93年3月末までの間に251兆円から482兆円に、ほぼ倍増している。

投資対象は、土地から株やゴルフ場会員権、宝石、絵画・骨董などの美術品へと、とめどなく広がっていった。日本中が高熱に浮かされている状況だった。長期資金の貸出しに特化して明治以来確固たる地位を築いてきた日本興業銀行までが、「北浜の天才相場師」の異名を持った大阪の料亭女将に数千億円もの投機資金を貸していたことが発覚して騒ぎになった。現在のみずほ銀行は、富士、第一勧業の両銀行が、この件以降低迷を抜け出せなかった興銀を救済するために合併に応じ、設立されたと言って良い。

87年10月19日には、ニューヨーク株式市場でダウ平均株価が22・6%も暴落するブラック・マンデーが起き、世界同時株安へと広がったが、88年秋に来日したFEDのアラン・グリーンスパン議長が「日本の株価は高過ぎる」とため息を漏らしたほど、日本はその影響を世界で最初に脱出していた。

「円高不況」という言葉が人々の口端に上る頻度が減って、カネあまりの好況感の中を泳ぎ回る人が急増した。企業は大量の新人採用を競い、有効求人倍率は91年に1・40倍、この年の大卒求人倍率はリクルートの調査で2・86倍になったと報じられた。給与も高度成長期を彷彿させる幅で上がった。多くの人々が「バブル景気」を実感していたのは、88年から91年2月ごろまで3年余ではなかったか。

ただ、この間に所得格差が拡大した。通常の経済活動が生み出す所得よりも、資産価格の値上がりで得られる利益が大幅に上回り、資産取引のできる富裕層の所得が格段に増えたからだった。

冒頭に述べたように、株価が真っ先に坂道を転落し始めた。やがて地価にも陰りが見え始める。そのきっかけとなったのは、90年3月に大蔵省銀行局長が出した「土地関連融資の抑制について」とする行政指導の通達だった。「総量規制」と呼ばれたこの通達は、不動産向け融資の伸び率を貸出全体の伸び率以下に抑えるよう求めたもので、不動産業、建設業、住宅金融専門会社を含むノンバンクへの融資については実態報告を求める「3業種規制」もつけられていた。
これに呼応するように、日銀も金融引き締めに乗り出した。89年5月から90年8月までの1年3ヵ月に5度の利上げを実施、2・5%だった公定歩合は6%台まで上昇、通貨供給量も90年こそ11・7%の伸びだったが、91年は3・6%、92年は0・6%まで抑え込んだ。遅きに失した感は否めない。(つづく)

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