2022年11月25日号 Vol.435

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
[Detail, 67] バックナンバーはこちら

政界への闇献金と暴力団
スッタモンダの政治改革

日本の政界の話を続けよう。

巨大疑獄とされたリクルート事件は「大山鳴動してネズミ一匹」でしかなかったが、その影響で、竹下内閣が潰れ、当時の自民党有力者が根こそぎ関与したことで、派閥の領袖でもない宇野宗介、海部俊樹両氏に総理・総裁のお鉢が回ったことは既に述べた。91年夏頃から、もう一つ政界がらみの「東京佐川急便事件」が起きる。

運送大手の同社とはいえ数千億円に上る身分不相応な資金流出があったことがわかり、社長だった渡辺弘康氏らによる暴力団企業などへの巨額債務保証に加え、政治家への巨額のヤミ献金が明るみに出たのである。

発端は87年にさかのぼる。政界スズメたちの間で「ほめ殺し」という言葉が囁かれた。竹下登氏の総理就任が有力になると、指定暴力団稲川会の傘下にあった右翼団体・日本皇民党が「日本一金儲けの上手い竹下さんを総理にしましょう」などと街頭宣伝して回った。恩義のある田中角栄氏を裏切って経世会という自前の派閥を作った竹下氏を攻撃するもので、強烈な皮肉でほめたたえながら、実は攻撃する活動を「ほめ殺し」と称したのだった。

竹下氏は腹心の金丸信氏に相談、金丸氏は、東京佐川急便の社長だった渡辺広康氏に、稲川会・石井隆匡会長への仲介を依頼。両者の会談で、「竹下氏が田中氏に直接謝罪する」ことで街宣活動を中止することが決まった。竹下氏は目白の田中邸を訪れたが、田中氏の長女、真紀子氏の一存で玄関払いされる。けれども、ほめ殺し活動は沈静化して、数週間後、竹下氏は首相になった。

ただ事件には続きがあった。稲川会石井会長は、東急電鉄株の買い占めでも名を売り、『最強の経済ヤクザ』と本に書かれた男である。以後、東京佐川急便の渡辺社長を繁く訪ね、稲川会系企業に対する資金融資への協力を要求、4千億円を超す債務保証を取り付けた。反竹下の街宣活動を収拾した「落とし前」だった。当時はバブル景気のクライマックスで、日本中が巨額の投資に浮かれていたが、91年になってバブルの崩壊が顕著になると、借金返済に行き詰まる企業が急増。稲川会もご多分にもれず巨額負債の大半が返済不能となり、債務保証していた東京佐川急便が窮地に追い込まれた。91年7月、渡辺社長ら東京佐川急便幹部は全員解雇され、東京地検特捜部による捜査も始まった。

ついでながら、稲川会の石井会長は病を患い慶應義塾大学病院に入院した。この年9月、私は東京都内で自損の交通事故を起こし、同病院に緊急入院する。その時、廊下を挟んだ向かい側の部屋に石井会長がいた。一目でそれと分かる風体の男たちが出入りし、病室からは酸素吸入の音が間断なく漏れて病の重篤さを示していた。私を見舞いに来てくれた社会党の土井たか子委員長が、「一体何者ですか」と恐れていた。石井氏は私の19日間の入院中に死去、事件捜査の重要参考人が死んでしまったのである。

特捜部は翌92年2月に渡辺社長ら東京佐川急便の幹部4人を特別背任容疑で逮捕したのを契機に、不正融資やヤミ献金の疑惑捜査を本格化し、8月には、自民党金丸信副総裁が東京佐川急便から5億円の献金を受けながら、政治資金収支報告書に記載していなかった事実を突き止めた。金丸氏は事実を認めて検察に上申書を提出、9月に東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。

世論は、「5億円のヤミ献金が20万円の罰金か」と猛烈に反発、金丸氏は議員辞職に追い込まれる。検察側もさすがに「拙い」と考えたのであろう。翌93年3月には、政治資金を個人資産に流用しながら税務申告をしていなかった所得税法違反の罪で金丸氏を逮捕する。87〜89年の間に18億円余の所得を隠し、10億円余を脱税したとされた。金丸氏は、この事件の公判中に病死、公訴棄却となった。

東京佐川急便は、与野党を問わず多くの政治家にヤミ献金を重ねていた事実が次々に発覚し、リクルート事件に劣らず政界に大きな影響を及ぼした。既成政党への批判が高まる中、金丸氏の失脚で党内でも派閥でも主流の座を失った小沢一郎氏は、羽田孜、渡部恒三氏らと「小渕派」となっていた竹下派を離脱、「羽田派」 を旗揚げ、自民党内の力関係に動揺をもたらした。

少し先のことまで述べると、93年6月に、社会、公明、民社、社会民主連合の各派が宮沢内閣不信任案を提出すると、この羽田派を中心に自民党39議員が賛成票を投じて可決されてしまう。

宮沢首相は衆議院の解散で応じたが、自民党からは離党者が相次ぎ、武村正義氏らの「新党さきがけ」に続き、小沢、羽田氏らは「新生党」を結成、「日本新党」を旗揚げして参院議員になっていた細川護煕氏が、この衆院選に鞍替え立候補したことで、政権交代に向けた「新党ブーム」が沸騰した。自民党は過半数256を大きく下回る223議席で55年の結党以来保持してきた政権の座を失い、社会党も左右両派が合同して自民党の対立政党になった55年以来最低の70議席にほぼ半減。93年7月の衆院選は「55年体制崩壊」で記憶される選挙となった。

8月、政権の座についたのは、非自民・非共産8党派が連立した細川内閣だった。閣僚の顔ぶれは、連立党派で最大議席を持つ社会党と、第2党の新生党が各6、第3党の公明党が3で、日本新党は細川総理だけ、民社党と社会民主連合から各1で、民間から2人が起用された。切り貼りのような陣容だが、この政変を演出した新生党の小沢一郎氏は入閣せず、羽田孜代表を副総理・外相で送り込んだ。

細川内閣は、長く懸案とされてきた政治改革に取り組み、選挙制度では、社会党に加え、野党になったとは言え最大勢力の自民党の大勢が中選挙区に未練を残して審議が難航したが、翌94年1月に細川首相と河野洋平・自民党総裁のトップ会談で、小選挙区300・比例代表200の並立制導入で急転合意、改正政治資金規正法、政党助成法なども含む4法案が3月初めに成立した。リクルート、東京佐川急便事件を挟んで、実に5年以上もスッタモンダを繰り返した上での「政治改革」だった。

発足当初から高い支持率を誇った細川内閣だったが、右寄りの政策には社会党が足を引っ張り、リベラル性の強いことを言えば影の実力者・小沢一郎氏からダメが出るなど、連立内部の不一致がしばしば表面化、4月には退陣に追い込まれる。1年に満たない短命内閣だった。

細川氏とは新聞記者になったのが同時期で、私が読売社会部の駆け出しの警察回りで警視庁第7方面・本所署のクラブを担当していた頃、彼は朝日の社会部で第6方面・上野署のクラブにいた。本所と上野はカバー関係で上野担当記者が休むと私が上野に行った。彼は決まって粗末な2段ベッドの上段にゴロ寝し「殿様」と呼ばれていた。降って90年だったか、『内田忠男モーニングショー』が熊本から生放送した際に、知事をしていた彼とのインタビューを収録して放送した。政治家になった細川氏は、既成の政治家と一線を画した斬新な政策を売り物にしていたから、語り口も新鮮でカッコよかった。けれども総理大臣となると勝手が違い、見るべき業績を残せずに終わった。
(つづく)

HOME