2022年11月11日号 Vol.434

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
[Detail, 66] バックナンバーはこちら

政党・政治家の利益優先
大局観ない国政

1991年4月から、夕方6時〜7時のネットワークニュースのアンカーを務めることになった。番組のタイトルは『ステーションEYE』――夜10時からの『ニュースステーション』が絶好調で、そのタイトルにあやかったネーミングだったことは明らかだが、報道局には競争他社と競合する夕方が主戦場との考えが強かった。

私たちはと言えば、6時から始まる番組を前に、5時半ごろから、その日に読まされる原稿が手元に届き始める。目を通すと、日本語の用語や語法の間違いが目についた。間違いでなくとも「行う」という言葉が乱用される。新聞記者に成り立てで福島支局に配属された直後、デスクから「行う、という用語は便利で使い道が多いが、安易に使うと、オコナウだらけの文章になってしまうから気をつけろ」と言われた。以来、私自身は「行う」をできるだけ使わないよう常に気をつけているのだが、テレビ局の報道デスクには、そうした「日本語に対する気遣い」が基本的に欠けていた。事前に手元にきた原稿には手を入れて本番を待ったが、番組中に届く「ツッコミ」の原稿は、初見で読みながら直していった。

それにしても、他人様が書いた原稿を読まされるだけの作業はなんとも味気ない。与えられた本記を伝えるついでに、気の利いた短評、時には文明批評を挟むことに神経を集中する……そんな毎日だった。

もう一つは、日本の国政を俯瞰する立場に立って、この国の政治が不毛に近いと改めて感じたことだった。

無論、政策をめぐる対立は与野党、時に与党内部でもあるのだが、その対立の根源や理由をたどると、国全体の利益、国民の利益でなく、自分たち徒党だけの、あるいは政治家個人の利益に発する身勝手なものが多く、大局観など初めからないも同然……しかも、対立の到達点はと言えば、相手の責任を追求して、「辞めさせる手段」を作り出すことに大半のエネルギーが費やされる……つまり、「政局」づくりで、それを報ずるマスメディアの政治部も「政局部」のような活動に奔走していた。

当時の内閣総理大臣は、89年8月に就任した海部俊樹氏。リクルート事件にも名が上がらず、清新なイメージで一般有権者の支持は高かったが、清新さは政治家としての腕力が弱いと判断される一面もあり、自民党内には「その場しのぎ」の感覚が強かった。

前にも書いたが、リクルート事件が巻き起こした政治不信で竹下首相が89年6月に退陣、後を継いだ宇野宗佑氏も女性スキャンダルに足を取られ、参議院選挙で惨敗した責任をとって就任から2月足らずで辞意を表明する羽目になった。ニューリーダーと目されていた安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄氏らはリクルート事件に関与して、「1年間、または次の衆院選まで、党の役職を辞退する」とした申し合わせで動きが取れなかった。最大派閥の竹下派は金丸信氏らの7奉行が、同派の橋本龍太郎氏への一本化を策したが派内の調整がつかず、竹下氏が早稲田大学雄弁会の後輩で親しくしていた河本派の海部氏を擁立しようと動き、8月8日に行われた総裁選挙は、海部氏のほか、二階堂派の林義郎、安倍派の石原慎太郎氏という、いずれも派閥のトップでない3氏で争われ、竹下派の支持を得た海部氏が選ばれるという異例の展開だった。

竹下氏にとって海部氏は後輩というだけでなく、独自の党内基盤を持たないから支配し易い――再登板を期して影響力を維持したい同氏には、「決定的な世代交代にはならない」との読みもあった。

国会での首班指名選挙も、衆議院は海部氏だったが、自民党が過半数を失った参議院は日本社会党の土井たか子委員長を指名。両院協議会が不調に終わって、憲法の規定に基づき衆議院の指名が優先されて海部氏が選ばれるという経緯をたどった。しかも、首班指名の1時間後には党三役が決まり、新任の小沢一郎幹事長が海部氏を隣の応接室に閉じ込めたまま閣僚名簿を作り上げ、4時間で組閣を完了させた。

竹下内閣から95年に終わった村山富市内閣まで7代の内閣で官房副長官を務めた石原信雄氏が回想録に、「海部さんは重大法案など決める時には必ず金丸、竹下氏の判断を仰いでいた」と竹下派の支配が強かったことを記しており、党内やマスメディアからは「本籍竹下派・現住所河本派」と揶揄されたほど竹下氏の膝下にあって自主性が乏しかった。

報道各社による世論調査の支持率は50%を下回ることはなく、高い時には64%に上り、90年2月に行われた衆議院選挙では、前年の参院選惨敗が尾を引いて自民党の退潮が伝えられながら275議席を獲得、選挙後には保守系無所属の11を足して286の安定多数を堅持したが、党内の支持が広がらない。湾岸戦争での135億ドルの出費に対し、党内右派からは「カネだけ出して人は出さないエセ国際貢献」「一国平和主義」などと揶揄され、進歩的な考えを持つ左派からは「無駄金はアメリカの言いなり」と批判され、四面楚歌に近い状態だった。それに火を付けたのは、衆議院に小選挙区制を導入する政治改革法案で、自民党内でYKKと呼ばれた山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎の各氏らを先頭に「海部おろし」とされる倒閣運動が起こった。

政治改革法案は党内の異論をよそに閣議決定し、91年9月の臨時国会に提出されたが、法案を審議した特別委員会が審議日数の不足を理由に廃案にしてしまう。それを受けて開かれた党4役との緊急会議で、海部氏は「重大決意で臨む」と発言したと報じられた。首相が「重大決意」と言えば、政局用語では、「解散」を意味する。海部氏自身、解散を決意していたが、党内では法案にも反対していた宮澤、三塚、渡辺派が揃って反対、海部支持のはずの竹下派にも解散不支持の動きが表面化して、首相辞任に追い込まれた。11月5日総辞職、宮澤喜一氏が後継の自民党総裁に選ばれ、首相となった。

アメリカの立法府は、上院は州の大小に関係なく2人ずつの定員で、それぞれが主権国家でもある州の意向を反映させるとともに、条約や行政・司法部門の人事に承認権を持つのに対し、下院は10年ごとの人口変化に応じて州ごとの定員が自動的に決まり、選挙区割は州の独自性に委ね、民意を素早く反映させるために435人全員が小選挙区制……とスッキリしている。これに対し日本の2院制は、衆参両院の間にアメリカほど際立った違いがなく、しかも当時は、衆議院が中選挙区制で1つの選挙区から複数の議員が選ばれていた。

改革法案が出たのは、1955年以来、自民党の政権独占が続いており、政権交代を待望する空気が生まれていた。そのためには小選挙区制の方が、政権選択の色合いが強く出るとして採用が叫ばれたものだったが、中選挙区の2位、3位で選ばれることの多かった議員の間に「議席を失う」ことへの恐怖心が強く、それが反対勢力を多くしていた。議論の前提が「個人の都合」なのである。それが怒鳴り合いを演じているのだから、「これでは日本の政治はいつになっても良くならない」と思ったものだった。

この政治改革法案は、55年体制が崩壊して自民党が野に下り、93年に成立した細川護熙内閣の下で、小選挙区300、全国を11ブロックに分けての比例代表200の並立制で、ようやく成立した。まことに日本的な決着であった。(つづく)

HOME