2022年10月14日号 Vol.432

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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「ベルリンの壁」崩壊後の
新しい東欧諸国を見聞

話は前後するが、湾岸戦争に向けて人的貢献を求められ、海部俊樹首相が対応に苦慮していた最中の90年9月に、遅めの夏休みが取れて欧州への一人旅に出た。前年は東欧諸国の社会主義支配がドミノ倒しとなっていたのに、その現場が見られなかった。ベルリンの壁崩壊という大事件さえ、遠目に映像を見ているしかなかった。

早いうちに新しい東欧をこの目で見ておかなければいけないーー強迫観念のようなものもあって、取るものもとりあえずという形で、出発と帰国の日以外、日程も定かでない旅に出たのだった。

まずイギリス。

「鉄の女」と言われたサッチャー首相が就任から12年目を迎えていたが、到着した日に発表された8月の消費者物価指数が10・6%と8年ぶりの2桁。さしものサッチャー人気も急速に下火になっていたが、旧知のイギリス人ジャーナリストに聞くと、「人気は盛り返しつつある」という。

同じ日、英下院はクウェートに侵攻したイラクに対する経済制裁を強化する法案を圧倒的多数で可決していた。制裁に違反した企業には上限なしの罰金か、責任者に7年以下の懲役刑を科すという。そのうえ、1週間後には6千人の地上兵力を湾岸地域に派遣することも決めた。派遣当初だけで、当時の日本円にして260億円、以後1日5・5億円の出費を強いられるという。インフレ下の景気後退感が強まる中、楽なことではないが、この辺りに、この国家の国際社会に対する責任の取り方を見た。国民もそうした政策を歓迎する。サッチャー首相の支持率回復は、「強力な大英帝国に相応しい政策」のおかげだった。「斜陽の老大国」などとバカにしたものではない、と思った。

ロンドンからオーストリアのウイーンに飛ぶ。

九州の2倍半しかない小国だが、7つの国と国境を接し、1955年に国家主権を回復した際、永世中立を宣言していた。けれども軍隊はある。18〜50歳までの男子には兵役の義務があり、千人近い将兵をキプロスなどの国連平和維持軍に派遣もしていた。中東危機に際し、キメ細かな情勢分析や論議抜きで自衛隊派遣など頭から問題外とする日本人の「平和ボケ」が、国際社会では「横着を決め込む国」と思われるのもムベなるかなと感じたものだった。

ウイーンには、シェーンブルンはじめいくつかの宮殿、シュテファン大聖堂、国立歌劇場など見るべきものが多々あるが、それに背を向けて、車を雇いハンガリーのブダペストに向かった。

ハンガリーは、東欧諸国の中で、ソ連に反旗を翻した最初の国である。1956年10月、学生・労働者らによる反ソ連、反社会主義のデモが広がり、穏健派とされたイムレ・ナジ首相がワルシャワ条約機構からの脱退と中立を宣言するところまで進んだが、侵攻してきたソ連軍戦車に圧殺された歴史を持つ。その後は、表向きソ連に忠誠を示しながら国内改革を少しずつ進める面従腹背で、隠忍の時代を過ごしてきた。だから、ソ連にゴルバチョフ書記長が出現して「新思考外交」を標榜しても、慎重に成り行きを注視しながら、東欧圏では真っ先に複数政党制を採用する国となった。89年1月のことであった。

90年6月にはブダペスト証券取引所が業務を開始、資本主義市場経済が動き始めていた。

ただ、首都ブダペストの表情には少しばかり失望させられた。社会主義統治下にあっても、「ドナウの真珠」とか「ドナウのバラ」と呼ばれる美しい都市だったが、目抜き通りは薄汚く騒々しくなっていた。徘徊する若者たちにも退廃的な空気が漂う。ここに来る車窓から見た農村地帯が実に美しく整備され、点在する農家の窓には純白のレースのカーテン、屋根には銀色に輝くテレビのアンテナが突き出ていたのとは、対照的なくすんだ光景だった。この時から30年余経った今、EUに加盟しながら、オルバン・ヴィクトル首相が親プーチンの強権政策を進めている。東欧革命の先駆けとなった姿とは逆の道を歩んでいるように見える。

ポーランドに飛ぶ。

社会主義統治下にあって自主管理の労組「連帯」が結成されて政府と渡り合っていた82年以来、8年ぶりの訪問だった。が、ここでも落胆が待っていた。

ワルシャワの街には粗末な露店が目立った。覗いてみると、わずかばかりの収穫を持ち込んだ農民、西側から安物の雑貨、衣類、電気製品などを買い込んで店を広げた都市住民……経済活動が自由になったから思い思いに勝手なことをすれば良いと、市場原理を誤解しているとしか思えない姿があった。

市場経済は自由で公正な競争の社会である。その前提として、生産段階での分業もあれば、市場開発から流通・販売に至るさまざまなステップがある。規模の利益も追求する。各個人がまちまちのひとり相撲を取っていたのでは大きな進歩などあり得ない。

再会したポーランドの友人の表情は冴えなかった。「一般市民の生活水準は、(私と最初に会った)9年前より確実に低下している。今のポーランドには金持ちと貧乏人だけ、中流がいないんです」。通貨の交換比率は81年5月の初入国時に公定では1ドル=32ズローチだったのが、この時は9500ズローチ、300倍近い落差になっていた。

旅の最後はベルリン。

分断していた東西ドイツが再統一(と言っても、西が東を吸収合併)したのは、この年10月3日のことで、まだベルリンは東西に分裂していた。東西を分ける「壁」はわずかに跡形を残すまでになっていたが、格差は歴然としていた。それを象徴するのが東独製のトラバントという小型乗用車。古典的な2ストローク・エンジンで、エンジンオイルをガソリンに混合給油する方式のためか、青白い排気ガスを撒き散らして走る。その匂いが街全体に立ち込めているのが東ベルリンだった。

7月に通貨が統合され、東西のドイツマルクが等価で交換できたが、東側では物価が急上昇した。東の人に聞くと、「東西マルクの等価は、西独コール首相の英断で有難かったし、デパートやスーパーに行けば西側製品が溢れているが、値段が高くて手が出ない。仕事を失う人も増えたし……」と嘆く。東独は工業生産の効率が高いことではソ連・東欧圏の優等生だったが、「西には敵わない」という。東独製品の多くは競争力を失い、工場も操業停止、倒産に追い込まれ、労働者に一時帰休や解雇を通告せざるを得なくなった。

精強を誇った東独人民軍も、17万の兵力が10万弱に減り、そのうち当初7万人を見込んだ統一軍への編入も5万人に減らされた。東独軍人3人に2人以上が確実に失業する。

ただ、人々が嘆くほど状況は深刻ではなかった。東側の平均世帯所得は1200マルク、当時の邦貨換算では約10万円で西側に比べれば劣っていたが、5万円にも満たないポーランドなど他の東欧諸国に比べれば遥かに高い。西独という強い"兄貴"が、東独の社会基盤整備に合併後の1両年で20兆円近くを投ずることにもなっていた。

「欧州で、ドイツがまた強くなる」――確信に近い思いが浮かんだのだった。(つづく)

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