2022年9月30日号 Vol.431

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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小切手外交を変えた
自衛隊の大健闘

「湾岸の夜明け作戦」での進出途中、真水・糧食・燃料の補給のため、スービック海軍基地(フィリピン)に立ち寄った旗艦「はやせ」(撮影1991年5月/ public domain)

Show the flag, Boots on the ground !

「日の丸をつけた地上部隊を出してはどうか」――湾岸戦争が始まる前の90年に、アメリカはこうした言葉を繰り返して、日本の国際貢献を求めてきた。イラクのクウェート軍事侵攻から2週間も経たない日本時間8月14日早朝には、ブッシュ(父)大統領が海部俊樹首相へのホットラインで日本の人的貢献を要請。その前面には、「国際的な危機に臨んで、カネだけ出して済まそうとするcheckbook diplomacy=小切手外交はもういい加減にやめたらどうか」という米側の対日批判があり、前年8月に発足した海部政権には少なからず動揺が走った。後に、民放局持ち回りの『総理と語る』という番組の当番がテレビ朝日に回ってきて、私が海部氏と対談した際「こっちにも手続きがあるんだと押し返した」と話してはいたが、当時の苦悩が深かったことを隠さなかった。

その背景として、バブル景気の絶頂にあった89年には、米側が構造協議を求めてきた貿易摩擦に加え、マンハッタンのランドマークであるロックフェラーセンターを三菱地所が、伝統と歴史に包まれたコロンビア映画をソニーが、それぞれ買収。それ自体は真っ当な商行為で責められる筋ではなかったが、米国内には「日本人は傲慢だ」と成り上がりの金満ぶりを非難する空気が強まっていた。

日本側の事情を言えば、戦争を放棄し、「陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない」と明記した憲法9条があり、現実として自衛隊を戦地に派遣することはできない。ブッシュ大統領からは、輸送・補給面で支援要請があり、自衛隊を出せない日本としては、民間船舶や航空機のチャーターを検討したが、戦闘地域への派遣に手を上げる企業はなかった。こうした事情を説明する日本側に、アメリカは、「ペルシャ湾には日本の船舶が多数いるではないか。日本企業は自分の経済利益のためにしか活動しないのか」と、さらなる不満で応じた。

日本政府は進退窮まっていた。イラクでは日本人も欧米人と共に人質に取られて拘束されていた。救出するのは当然だが、どこかの国におんぶするしかない。90年8月29日にまず1千万ドルの資金提供を公表すると、「その額面で何ができるんだ」とアメリカが強い不快感を示し、大蔵省は翌日、大慌てで100倍の10億ドルという数字を公表。9月14日にも10億ドルの追加資金協力と、周辺3ヵ国への20億ドルの経済援助を決定した。まさに金満国家の小切手外交だ。

自民党内では、剛腕を磨きつつあった小沢一郎幹事長が、「現行法下でも自衛隊を中東に派遣できる」と主張して首相に決断を迫っていた。海部首相は内閣官房と外務省に法案作成を指示したが、個人的には「自衛隊の派遣は不可能」と考えていた。

10月半ば、総理府に「国連平和協力隊」を新設し、そこに自衛隊員も参加できるようにする「国連平和協力法案」が国会に提出された。苦し紛れの法案だったが、前年の参院選で自民党が過半数を失った「ねじれ国会」では成立の目処が立たない。11月8日、あえなく廃案となった。

日本政府の対応は、小切手外交への逆戻りしかない。開戦後の90年1月24日には特別立法で90億ドルの追加資金協力が決まり、湾岸戦争への協力金としては合わせて130億ドル、さらに為替変動で目減りしたという5億ドルも追加支出した。

多国籍軍部隊の74%を占めたアメリカは、連邦議会の計算で611億ドルの戦費を費やしたが、自国負担は90億ドル。残りの520億ドルのうち、360億ドルをクウェート、サウジアラビアなどの湾岸諸国が負担、日本が110億ドル(他に紛争周辺3ヵ国への経済援助が20億ドル)、ドイツが70億ドルを支払った。日本は、他に何もしなかったわけではない。多国籍軍には4輪駆動車やウオークマンはじめ、数多くの日本製品を提供、それぞれが高い評価を受けたと言われている。

戦争が終わって、3月31日付の米主要紙に、クウェート政府による全面広告が掲載され、30の国名をあげて支援に感謝する言葉が述べられたが、135億ドル(邦貨で約1兆8千億円)もの支援資金を出した日本の名はそこになかった。

「カネは出しても人は出さない、血は流さない」――国際社会で日本という国家への形容詞が固まりつつあった。国内では、日本の行い得る国際貢献は戦後処理としての機雷掃海作業にのみ可能性がある、との判断が生まれ、準備作業が始まった。3月6日には、ドイツ政府がアメリカと国連の要請を受け、ペルシャ湾全域に敷設された機雷除去のため海軍掃海部隊を派遣すると発表していた。
4月24日、「ペルシャ湾における機雷の除去及びその処理の実施に関する海上自衛隊一般命令」が発令された。「湾岸の夜明け作戦」と命名され、指揮官に指名されたのは、第1掃海隊群司令だった落合畯(おちあい・たおさ)一等海佐(のち海将補)。

――彼とは、東京教育大学附属中・高校で同期の仲だった。高校時代までは大田姓で、太平洋戦争の沖縄戦で日本海軍の根拠地隊司令官だった大田實海軍中将の3男。大田中将は、最後のキワに打った海軍次官宛て電報を「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」 という異例の言葉で結んだことで知られる。

旗艦「はやせ」(掃海母艦、満載排水量3050トン)に掃海艇4隻と補給艦「ときわ」からなる6隻511名の派遣部隊は同26日出港、6月5日から米海軍の担当海域で作業開始。7月20日までに17個の機雷を処分。この時点で英仏独伊など西欧同盟の掃海部隊は、国連から付託された全海域の作業が完了したとして帰国したが、ペルシャ湾北部の水深の浅い海域が手付かずで残されていた。外務省がイラン、イラク両国から同海域での掃海作業の同意を取り付け、7月28日から作業を再開、海流が速い上に原油パイプラインが複雑に走る海域での難作業を米海軍と共に続け、8月12日からはクウェートに通じる航路帯にも対象を広げて8月末まで作業を続けた。さらに9月6日からはアラビヤ石油の依頼でカフジ油田の安全確認作業も行い、部隊は無事、10月30日に呉港に帰還した。

帰国してから暫く経って、落合君を夕食に招いた。正味3ヵ月余にわたった掃海作業について淡々と語ったが、直前の予行演習で他国艇が1隻あたり1日以上かかった磁気測定を、日本隊は4隻あわせて半日で終わらせて各国海軍を驚かせたことをはじめ、50度Cを超す酷暑に加え、砂漠から飛来する砂塵、イラク軍の油田放火で生じた煤煙などさまざまな悪条件との戦いを隊員たちが見事に乗り越えたチームワーク、掃海艇の機雷探知機が巨大エイ、マンタを探知した……などのエピソードを話してくれた。共同作業の多かった米中央海軍の司令官や、欧州各国海軍の司令官らとの間に緊密な友情が生まれた経緯についても詳しく語った。

この海上自衛隊掃海部隊のペルシャ湾派遣が成功理に終わったことで、日本国内に根強かった「自衛隊の海外派遣反対」の空気が緩和され、冷戦後の国際秩序の中で一定の人的貢献が必要との認識も広がり、92年6月に「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」――略称・国際平和協力法が成立(8月施行)した。同年9月からのカンボジア派遣を皮切りに、モザンビーク、東ティモール、ハイチ、スーダンなど世界各地の国連ミッションに自衛隊が参加することになった。(つづく)

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