2022年8月19日号 Vol.428

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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グローバル化の起点となった
全欧安全保障協力会議

パリで行われた「全欧安保協力会議」に参加した各国の指導者(1990年11月21日撮影 Photo : George Bush Presidential Library)

1990年の海外取材は11月だった。

19〜21日パリで開かれた国際会議を取材するためだった。この会議はCSCE=Conference on Security and Co-operation in Europe、日本語では「全欧安保協力会議」と呼ばれる首脳会合だった。欧州の東西が核兵器と通常兵器を増強拡大して睨み合っていた冷戦最中の73年に、安全保障の幅広い側面にわたり全欧州諸国が政治対話をする場を作り、紛争の予防、危機管理、紛争後の再建などについて橋渡しをする目的で創設が決まり、75年に当時は東側のワルシャワ条約機構にも、西側のNATO=北大西洋条約機構にも加わらず、中立の立場をとっていたフィンランドの首都ヘルシンキで、全欧州と北米35ヵ国の首脳会合を開いた。主権平等、国境不可侵、内政不干渉、国際法の誠実な履行など基本的な関係を確認した上で、軍事演習の事前通告など偶発的な軍事衝突を防止する協力体制を確認する最終文書= Final Actを採択したが、このフォローアップ会合が3度ほど開かれただけで目立った活動をしていなかった。

それがなぜこの年に? というと、前年89年に東欧諸国で社会主義政権が倒されるドミノ現象が起き、東西に分裂していたドイツでは、ベルリンの壁崩壊から1年も経たない90年10月に西独が東独を吸収合併する形で再統一を実現していた。このドイツの例が象徴するように、「鉄のカーテン」で隔てられていた欧州が、対立の壁を取り払って新しい秩序を構築するーーそういう関頭に立っていた。

モーニングショーをやらされたために、東欧の89年革命も、ベルリンの壁の崩壊という大事件も……世界情勢の重大変化を横目で眺めているしかなかった私の心中には、「国際ジャーナリストが何をしているんだ」という不満と焦燥感が渦巻いていた。せめて、新しく生まれ変わる欧州がどのような知恵と地力を発揮して新しい世界秩序を創造しようとしているのか、その現場を見ておきたい、という欲求がムラムラと沸き起こってきた。CSCE首脳会議の開催が伝えられた秋口から、番組の部屋で、「とても重要な国際会議がある」と繰り返した。

何が重要かと言えば、「これからの欧州のみならず、世界全体の新しい構造・秩序に関わることが話し合われる。それは日本の国際的立場、ひいては日本人の暮らしにも大きな影響を及ぼすに違いない」と説き、モーニングショーのアンカーとしては異例の国際会議への出張取材を認めさせたのだった。

とは言っても、出張したのは私とフランス語はおろか英語もほとんど使えない若いディレクターの二人だけ。しかも、日本は加盟国でもないから、プレスセンターに日本の外務省のブースはない。大規模で重要な首脳会合をカヴァーするには何とも心細い陣立てだった。新聞記者時代から、孤独な海外取材には慣れている。配布される大量の資料の読み込みを含め、一人ぼっちの作業になった。その合間には同行のディレクターをパリ市内の要所に案内して、日本のモーニングショーの時間に生中継する場所の選定をしてもらわなければならない。カメラマンと衛星中継回線の手配などでは朝日放送が管轄するパリ支局のお世話になった。

会議に出席したのは、全欧州・東西31ヵ国にソ連、アメリカ、カナダを加えた34ヵ国。成立当初は35ヵ国だったが、直前に東西ドイツが統一されたことで34になった。西側参加国首脳には「冷戦に勝利した」という優越感が流れ、社会主義を放棄した東側諸国代表団には控えめな表情が目立ちながらも、冷戦中、憧れに近い感情があった西側諸国の仲間になったという達成感のようなものも感じられた。メディアの間では、1815年のウイーン会議、1919年のヴェルサイユ会議と対比する空気が強かった。前者は、フランス革命とナポレオン戦争で混乱し荒廃した欧州を大国の勢力が均衡する以前の状態に戻し、外交努力による域内の協調を実現した会議であり、後者は第1次世界大戦の講和会議として開かれ、国際連盟という新しい国際機関の設立による束の間の世界平和維持の仕組みが決まった。今度は、どんな枠組みが生まれるかという期待感である。

会議では、「冷戦の終結」が確認され、民主主義・法の支配・人権・市場経済を全欧州共通の価値とし、統治形態としての民主主義の強化を謳った「新しい欧州に向けてのパリ憲章」が採択された。

改めて憲章の本文を読みなおして行くと、「欧州の対立と分断の時代は終わった。これからの我々の関係は尊敬と協力に基づくことを宣言する」と前置きした上で、「我々諸国民が何十年も育んできた希望と期待を実現する時代が到来した」と宣明している。安全保障については、通常兵器に関する条約と、CSBMと略称された信頼・安全保障醸成措置に関する交渉を発展させるほか、化学兵器禁止条約の即時締結、空域を開放するオープンスカイ条約の締結促進など具体策をいくつも提唱する一方、冷戦終結後、唯一、血の匂いが漂うテロリズムについては、「すべての行為・手段・慣行を犯罪として非難し、多数国間の協力で撲滅するために努力する」との決意を表明している。

「いまだに世界を変える中心は欧州か」との思いを強くしながらも、「これまでより悪い時代が来るはずがない」との確信は持てたし、国際社会の前途は明るさに満ちていると感じた。複数政党による代表制民主主義の統治と市場経済、これが2輪となって世界中が価値観を共有して進むグローバル化の起点となったのである。

それまで協議の場として存在したCSCEは、94年12月のブダペスト首脳会合で機構化の必要性が確認され、翌年1月にOSCE=Organization for Security and Co-operation in Europe「欧州安全保障協力機構」となり、事務局をウイーンに置いて大使級の常設理事会が設けられた。また、91年末までにソ連邦が解体消滅し、中央アジアも含め15の国に分裂したことなどから加盟国は57に増えた。これを契機に域外諸国との対話・協力体制を強めることになり、Partners for co-operation=協力パートナー国の資格を設けた。日本は92年に最初の協力国になり、現在までにその数は11ヵ国に上っている。

かくしてOSCEは世界最大の地域安全保障機構になったが、2014年のロシアによるクリミア半島の軍事統合や、22年2月に始まったウクライナへの軍事侵攻という「絶対悪」を止めることはできなかった。軍事力による現状変更を認めないとする「絶対正義」の主張は「無視」を極めこまれている。東シナ海や南シナ海での中国の現状変更行為も同じだ。

今にして思えば、国際平和というのは、すべての国の善意で実現するのであって、どんなに精緻なルールを作っても、公然とそれに背く行動に出る国があれば、寄ってたかって非難の言葉を投げつけても事態は一向に変わらない。かと言って、実力を行使すれば軍事衝突がさらに拡大して、世界大戦になりかねないーーキレイごとの安全保障機構では、何の役にも立たないことが実証されたのであった。(つづく)

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