2022年7月22日号 Vol.426

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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米大統領就任式、G7、要人単独インタビューなど
海外出張から伝えた世界

・1989年のG7に参加した各国首脳(上段左:George Bush Presidential Library and Museum)・1989年ブッシュ大統領の就任式(下段右)・人権NGO「フランス自由=ダニエル・ミッテラン財団」のHPに掲げられたダニエル夫人(下段左)

東京で月曜から金曜まで帯の番組をやらされていれば、旅行の自由は制約される。国内でもそうだから海外はもっと難しかろうと考えていたが、実際はそうでもなかった。休み以外にも、結構外国に出ていたのである。

最初は89年1月20日のアメリカ大統領就任式。自信喪失の70年代から「復活の80年代」、それをもたらした8年間のレーガン治世が終盤を迎え、前年11月の選挙でジョージ・H・W・ブッシュ副大統領(父)が楽勝した。その新大統領から就任祝賀行事への招待状が舞い込んだのである。就任式の20日が金曜日で、前夜祭に出るには、19日の本番を終えて午後のフライトで東京を発てば同じ日の昼前に現地に着けるから間に合う。スタジオに出られないのは20日だけで済む||という幸運も手伝って、現地2泊、機中1泊の短期訪米に、「行って下さい」と許可が出た。

大統領就任式は酷寒の季節。妻ともども、完全防寒の準備をして出かけたが、この年のワシントンDC、就任式当日は華氏51度、摂氏では10度を超える温暖さだった。ブラックタイで出かけた前夜祭の行事もドンチャン騒ぎはなく、新大統領の地味な性格を映した穏健なもので、出席したセレブリティの表情にもある種の自信に裏付けられた落ち着きが見られた。仰々しい就任行事を期待したであろう番組スタッフには拍子抜けの感が深かった。「これが今のアメリカ」と私は告げた。
次の海外出張は、その年の7月、G7=主要国首脳会議だった。パリ郊外に新装されたグランダルシュ=Grand Archeで開かれたことから「アルシュ・サミット」と呼ばれた。高さを揃えた建物が整然と並ぶパリ市街と一変、フランス最初と言って良い超高層ビル、それも全面ガラス張りの現代的な装いだ。フランス革命の基本原則を記したとされる人権宣言から200周年を記念して建てられ、「新凱旋門」とも呼ばれた。

75年にジスカール・デスタン仏大統領の呼びかけで始まったG7サミットは、82年のヴェルサイユ・サミットに始まる2巡目を終え、この年3巡目に入った。発案国であるフランスの熱意は相当なもので、最も重要とされた「経済宣言」は、総論から、国際経済情勢、国際金融、経済効率、貿易、開発、最貧国問題、国家債務、環境、麻薬、エイズまで10分野を網羅した56項目にわたる分厚く、中身の濃いものになった。

この年はまた「89年革命」とも呼ばれる、東欧諸国が雪崩を打って社会主義統治をやめ、西側の自由主義・市場経済への合流を求めてきた年でもあった。これが顕在化するのは年の後半で、11月の「ベルリンの壁崩壊」で頂点に達するのだが、この7月の時点でも、非共産党系勢力の自由化が進み、ポーランドでは6月に一部不完全ながら複数政党による自由選挙が実施され、レフ・ヴァウエンサ議長率いる「連帯」が政権を奪取、また社会主義労働者党(共産党)政権のハンガリーでも複数政党制が認められ、6月27日にはオーストリアとの国境を開放した。これは東ドイツ市民が大挙西ドイツに脱出するルートとなり、やがてベルリンの壁崩壊を招く東ドイツ政府による「旅行自由化宣言」への呼水となった。

こうした情勢を反映して、サミットでは「東西関係に関する宣言」と題した政治宣言も採択され、「我々はポーランドとハンガリーで進められている改革の過程を歓迎する。これら両国で起きている政治的変革は経済的発展なくしては持続し難いものと考える。我々は、この過程を支援し、両国の経済を後戻りしない形で変化させ開放させることを目指した経済的支援を適宜かつ調整した形で考慮する用意がある……改革のはずみを維持するように、支援の手を差しのべるべきものと考える」との条項が含まれた。

さらに、この年6月4日に起きた中国・北京での「天安門事件」についても「我々はすでに、中国における人権を無視した激しい抑圧を非難した。中国当局に、民主主義と自由に対する正当な権利を主張したに過ぎない人々に対する行為を中止するよう強く促す。この抑圧に鑑み、我々各自は、深甚なる非難の意を表明し、二国間における閣僚その他のハイレベルの接触を停止し、中国との武器貿易を停止する措置をとるに至った。さらに、世界銀行による新規融資の審査が延期されるべきことに同意した……我々は、中華人民共和国政府が、香港に対する信頼を回復するために必要な対応をとるよう求める。我々は、国際社会の継続的な支援が、香港に対する信頼を維持する上で重要な要素になると考える」と書き込んだ「中国に関する宣言」を採択した。
ともすると形骸化が指摘され始めていたサミットに、もう一度息を吹き込もうというフランスの強い意志が感じられるサミットだったが、これら本筋は、外報・政治部とパリ支局の仕事だ。テレビ朝日と契約してから毎年出ていたG7サミットに何とか私を行かせようと、プロデューサーが知恵を絞ってくれた結果、私はサミットを横目に注視しながらも、主催国フランスのフランソワ・ミッテラン大統領のダニエル夫人と単独インタビューをすることになった。

夫人は、86年に人権NGO「フランス自由=ダニエル・ミッテラン財団」を創立し、貧困や圧政に苦しむ人々に対する支援活動を始め、特にチベットやクルド、ラテン・アメリカなどの抑圧された人々に支援の手を差し伸べていた。私たちは、その財団の本部に招かれた。私が英語で質問すると、夫人がフランス語で答え、それを傍に控えた側近の女性が英語に翻訳してくれる。

当時63歳。第一印象はフランスのファースト・レディというより、目が大きく、たくましい感じのする毅然たる女性だった。初対面の挨拶にも微笑は浮かべたが目は笑っていなかった。自らが立ち上げた財団の活動について、「精神的にも物質的にも恵まれている者たちが、不幸な人々を助けるのは当然のことで、この事業を始めるのが遅過ぎたと後悔している」と熱心に語った。ドイツ占領下の時代、親独のヴィシー政権に反旗を翻してレジスタンス運動に身を投じ、その過程でヴィシー政権の熱烈な支持者からレジスタンスに転向したミッテラン氏と会い、恋におちた。その頃について質問すると、「遠い昔のことですよ」と素っ気ない。素っ気ないだけでなく、思い出すのを拒否する意志が滲み出ているようにも見えた。それというのも、ミッテラン氏はレジスタンス当時から付き合いのあったアンヌ・パンジョという女性との間に、マザリーヌという婚外子をもうけていたことが広く知られていた。81年の大統領就任直後に、記者団からこのことについて聞かれ、「Et alors ? それが何か(問題かね)」と応じていた。ミッテランとの恋は、とうの昔に冷めていたのである。

あなたの政治信条は? の問いには、「liberale」とたった一言。ただそこには、他人の介入を許さない断固たる響きがあった。当時はまだEC=欧州共同体だったヨーロッパ統合の動きについては、「基本的な思想や歴史の違う国々が一つになるのは、決してたやすいことではない。無理に統合しても必ず対立が生じるでしょう」と否定的な言葉。では統合には反対されるのですか? と問うと、「いや、そうではない。ただじっくり納得するまで話し合うことが必要だと思います」――。語尾に至るまで常にきっちりと発音していた。そのフランス語の余韻が長く私の耳に残った。(つづく)

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