2021年11月12日号 Vol.410

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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「ニュースステーション」第一回放送は
プラハからの中継

私がテレビ朝日と関係を結ぶことになった『Big News Show いま世界は』という番組は、1983年から『TVスクープ』と名を替えて、金曜夜の同じ時間帯で放送を続けた。局側の大いなる期待にもかかわらず、視聴率はひと桁台の低空飛行だったが、この番組の企画・実現に主役を果たした小田久栄門氏は、年に1、2度一時帰国するたびに、「内田さん、ウルトラCを考えていますからね」とささやいていた。
そのウルトラCが『ニュースステーション』だった。

85年10月7日の夜10時に始まったこの番組は、TBSのアナウンサーから司会者になった久米宏氏をアンカーに迎え、月曜から金曜までのベルトで放送されることになった。その初回の放送を、私はチェコのプラハで迎える。

当時プラハには、インタービジョンと呼んでいた東側諸国のテレビの連合組織が置かれていた。正確に言えば、インタービジョンはOIRT=国際ラジオテレビ機構という組織で、テレビ朝日はこの組織と親密な関係を結んでいた。そこに仮設のスタジオを設けたのであった。

まだ冷戦下、東側陣営の動向をリポートすることで、新番組のグローバル性を強調する意図だったのであろう。東側の盟主ソ連では、この年3月、54歳のミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任していた。ペレストロイカ、グラスノスチ、新思考外交などゴルバチョフ新書記長の看板政策はまだ明確に提起されてはいなかったが、これまでのソ連のリーダーとはひと味もふた味も違う新鮮な政治家が登場したことはハッキリしていた。新しい時代が来る予感が漂っていた。

しかも、このプラハは68年に「プラハの春」の舞台になったところだ。

出張の要請を受けてから大急ぎで資料探しを始めたが、インターネットで検索すれば山ほど情報が見つかる現在とは大違い。新聞社のmorgue=資料室に駆け込めば話は早いのだが、ニューヨークの新聞社に頼める友人はいない。となれば図書館――すぐに思い浮かんだのは、ブライアントパークにある公共図書館だ。「知の殿堂」と言われるだけあって、「プラハの春の資料が欲しい」と司書に伝えると、百科事典に始まって単行本から雑誌までリストをどっさり示してくれる。百科事典は自宅でも読めるので、とりあえず事件当時のTIME、Newsweekなどを借り出して閲覧した。

60年代のチェコスロバキアは、社会主義国の御多分に洩れず、中央集権統治による政治・経済・社会の硬直化がもたらす日常生活の不自由さに対する民衆の不満が高まっていた。状況打開のため、68年初めに就任したアレクサンデル・ドゥプチェク共産党第一書記が、「人間の顔をした社会主義」を掲げて改革に乗り出す。ドゥプチェク氏自身は、当初、過激で急速な自由化要求がソ連軍の戦車で粉砕された56年ハンガリー暴動の教訓に学んで、宗主国ソ連との対立を回避するため、共産党の指導体制を維持した漸進的改革を指向したと言われるが、自由化を求める民衆の強い欲求に後押しされた党内改革派の圧力で、次第に急進的改革に重心を移して行く。

4月に党中央委員会が採択した「行動綱領」には、「強権による一元的統治の是正」をはじめ、「市場機能を導入する経済改革」、「西側との経済関係強化」、「言論の自由化」……など、当時まだ健在だったソ連のブレジネフ書記長が聞けば憤激しそうな項目が書き込まれた。そして6月には、これらを網羅した「2千語宣言」が発表され、力付けられた民衆が各地で街頭に繰り出し、改革への意欲がさらに高まる。
これを見たソ連高官は「反革命」の兆候として、ワルシャワ条約機構WTOの加盟国に結束と、チェコ情勢への監視を強めるよう指示する。ドゥプチェク第一書記は、ソ連、WTO諸国と会談を重ねはしたが、改革の後戻りには応じず、8月20日夜、ついにソ連軍戦車に先導されたWTO軍が国境を越えて侵攻、瞬時にチェコスロバキア全土を占領した。

当時のニューヨークタイムズは「ソ連の兵器カタログにある最新・最先端の兵器で武装した65万の兵士が雪崩れ込んだ」と伝えた。

それから17年を経たプラハを、中心部のヴァーツラフ広場(広場といっても、札幌の大通公園のような形で事実上は大通り)に面したホテルの窓から眺めているうちに、当時の民衆の熱狂と、それを蹴散らしたソ連軍の弾圧の光景が甦る気がしたものだった。

プラハは、建物の赤い屋根と林立する尖塔の美しい街である。市街地の北から西へ、そして南へゆったりと流れるモルダウ川のほとりに、ロマネスクからゴシック、ルネッサンス、バロック期と、中世以来の古い建物が並び、そこに「百塔のプラハ」と称される尖塔が数多く立っている。第二次大戦終戦直前の45年2月に、アメリカ軍が当時占領していたナチスドイツ軍攻撃のため激しい空爆を行なって大きな被害を受けたが、社会主義下でも、破壊された寺院などを復旧して美しい街並みが戻っていた。

私がニュースステーションの第一声を上げたインタービジョンのスタジオは、市街地からモルダウ川を挟んだ西の対岸にあった。

プラハの春を作り出したドゥプチェク第一書記は、ソ連・WTO軍による占領後も第一書記の地位にとどまったが、69年4月に開かれた世界アイスホッケー選手権(ストックホルム)におけるソ連代表との戦いに興奮した民衆の一部が駐留ソ連軍やアエロフロート・ソ連航空の事務所などを襲撃する事件が起きた責任を取る形で第一書記を辞任。その後連邦議会議長や駐トルコ大使を務めたが、70年6月に解任、共産党を除名された。その後はアンナ夫人と故郷のスロバキア、ブラチスラヴァ市郊外に隠遁して姿を見せることもなかった。市民たちに聞き回っても、当惑顔で「プラハの春は遠い出来事」としか答えなかった。唯一、カレル大学の教授が匿名の約束で「人々の心は冷え切ったわけではない。何かのキッカケさえあれば、自由を求める熱情が再び呼び覚まされるはずです」と語ったのが印象に残った。

けれども、東側の国営ラジオテレビの集合体から借りたスタジオで、こうしたことを口にすることは、まだできなかった。チェコスロバキア、ポーランド、ハンガリーなどの東欧諸国と西側諸国との経済関係の実情などを語って、東欧諸国の物資不足と経済苦境を遠回しに述べるしかなかった。

ドゥプチェク氏は、それから3年後の88年、ボローニャ大学から名誉博士号を授与されるためイタリア訪問を許され、その際、イタリア共産党機関紙「ウニタ」との会見で自らの政治信条を披瀝して国際社会に再登場した。翌年、劇作家ヴァーツラフ・ハヴェル氏率いる「市民フォーラム」が共産党による全体主義支配打倒に立ち上がると、その運動を公然と支援、ヴァーツラフ広場の演壇にも登場して民衆の歓呼を受けた。

この運動は、同年11月、一滴の血も流さない「ビロード革命」として完結。ドゥプチェク氏は連邦議会議長として政界に復帰した。民主化後は、チェコとスロバキアの連邦制解消(分離独立)に向けて働いていたが、その最中の92年9月、交通事故に遭い、それがもとで同年11月に死去した。(つづく)


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