2021年10月29日号 Vol.409

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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巨大なマイナス効果の根源
「プラザ合意」

1985年年9月22日、「プラザ合意」を発表した先進5ヵ国の蔵相・中央銀行総裁たち。(上段左から)西ドイツ/ゲルハルト・シュトルテンベルク、フランス/ピエール・ベレゴヴォワ、アメリカ/ジェイムズ・ベイカー(下段左から)イギリス/ナイジェル・ローソン、日本/竹下登

1985年9月22日に成立した「プラザ合意」について述べたい。先進5ヵ国(G5=日・米・西独・英・仏)の蔵相・中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルで緊急会合して通貨市場への協調介入を決め、急速な円高ドル安を進める発端となった。

81年に就任したロナルド・レーガン大統領は「強いアメリカの再生」を掲げた選挙公約に基づく「レーガノミクス」で、83〜84年には経済成長率が7%近くに達する好景気を呼んだ。

70年代にはベトナムからの敗退に加え、ウオーターゲイト事件という「大統領の犯罪」が明るみに出て、アメリカという国家の正義に確信が失われた。そこに2度にわたる石油危機で経済は不況下の物価上昇= stagflationと呼ばれる不振に沈み、起死回生を担ったカーター政権が無策に終始するなど、八方塞がりの時代だった。レーガン政権が誕生した80年代前半のアメリカは、カーター政権置き土産の20%という高金利目当てに世界中の投機マネーが集中したことでドル高となり、それが貿易赤字の拡大要因になった。さらに、「レーガノミクス」でアメリカ経済を急回復させたレーガン政権が、「経済的にも軍事的にも強いアメリカ」を呼号したこともあって財政支出が大きく膨らむ一方、好景気の到来で個人消費が伸びたことで輸入額が急増、財政と国際収支の、いわゆる「双子の赤字」を抱えることになった。

ドル高と国際収支の赤字拡大の背景にも、連邦政府が生み出した財政赤字による効果が大きかった。財政出動による景気刺激策が消費者の購買力を高め、輸入拡大をもたらした。日本企業は、そうした需要増に機敏に反応して対米輸出を増やし、またアメリカの高金利が日本の対米投資を促進する要因にもなって国際収支の不均衡を増幅していた。

しかしアメリカ側には「双子の赤字」の元凶は日本からの無秩序な輸入拡大だとする空気が急速に広がる。

85年初めに開かれた日米首脳会談で、レーガン大統領は中曽根康弘首相に「貿易は双方向であるべきだ」として、日本側の市場開放によるアメリカ産品の輸入拡大を強く迫った。国際収支の赤字を、輸入制限でなく、自国の輸出拡大で減らそうという正当な要求だったが、日本側の動きは例によって鈍い。3月末には連邦議会上院が、日本の不公正な貿易慣行に対抗するため、74年通商法301条に基づき、「輸入制限を含む適当で可能なあらゆる対抗措置を大統領に求める」決議を全会一致で可決、4月初めには上院財政委が、この決議に法的拘束力を持たせるための対日報復法案を可決した。5月初めに西独のボンで開かれたG7首脳会議では、レーガン大統領が「私自身は保護主義に反対なのだが、日本が市場を開かないと、議会の対日報復立法を阻止できない。法案の上程をボンサミットが終わるまで待って欲しいと頼み込んで、やっと先送りさせている状態だ」と自らの苦境を訴えた。

対応策を迫られた中曽根政権は、①先進国合意の下、工業製品の関税を全廃するよう努力、②輸入制限品目のさらなる削減、③基準認証・輸入手続きを国際水準に合わせて簡素・透明化し行政の裁量余地を縮小、④政府による外国産品調達拡大に向け契約手続きを改善、⑤金融・資本・サービス部門の一層の自由化――などを並べた「アクションプログラム」を公表したうえ、通産省が産業界に輸入拡大策のヒアリングをして、産業界は50億ドルの輸入増加計画を提示したが、対米貿易黒字の削減にはほとんど効果がなかった。

ドル相場が高めに推移したことも、アメリカに輸出減少と輸入拡大による大幅な貿易赤字をもたらす大きな要因だった。インフレ抑止に重きを置いたポール・ヴォルカー議長のFED(連邦準備制度)がとった高金利政策で民間投資は抑制され、需給バランスが改善された結果、インフレからの脱出には成功したが、国際収支が大幅な赤字となり、とりわけ、円安ドル高がもたらす貿易の不均衡に注目が集まっていた。

そうした状況下、85年1月にワシントンで開かれたG5蔵相・中央銀行総裁会議で、ドル高の改善が最大のテーマとなった。それまで秘密会形式だったG5が、この時初めて合意内容を公表し、「必要に応じた通貨市場への介入」が合意事項として書き込まれた。その後の報道で、1ドル=255〜256円がアメリカ通貨当局による介入の基準点とされた。

この会議に先立ち、レーガン政権は「強いドル」重視のドナルド・リーガン財務長官を、ジェームズ・ベイカー大統領首席補佐官に交代させ、ドル高政策転換の口火を切っていた。ベイカー長官はアメリカ単独での市場介入には必ずしも積極的でなく、日本には、内需拡大による貿易黒字の削減と、金融自由化で資本流出を抑制するなど、円安ドル高を修正するマクロ経済政策の実施を強く求めてきた。

6月に東京で開かれた先進10ヵ国蔵相会議 (G5にイタリア、カナダ、オランダ、ベルギー、スウェーデン)では、「各国が合意できれば進んで為替市場に協調介入すべきだ」という一項が声明に書き込まれた。この時の日米蔵相会談で、市場開放を求めるベイカー長官に対し、竹下登蔵相は「通貨市場への協調介入」を提案したと言われる。一説には「10%程度の円高には対応する」とも伝えたという。当時の中曽根政権は、米側が迫る市場開放より円高容認で貿易不均衡を改善しようとしたのだ。小手先の悪手だったが、これで一気に「円高介入」への道が開ける。マルフォード財務次官補と大場智満・大蔵省財務官が7〜8月にかけ協調介入に向けた案文作成にあたり、これを西独・英・仏に持ち回りしたうえ、9月15日にロンドンでG5各国の事務方トップが秘密裏に会合、最終案を仕上げた。翌週日曜日の22日、ニューヨークのプラザホテルで急遽開かれることになったG5蔵相・中央銀行総裁会議はあっけないほどの短時間で終わった。

集まった私たち報道陣は、合意文書のコピーを渡され、声明文では、欧州諸国の主張で「市場介入」は明記されず、アメリカの主張で、政策協調の目的が「ドルの切り下げ」でなく「他国通貨の切り上げ」と表現されていた。文面の如何にかかわらず、この合意が「円高」への修正を最大の標的としていたことは明白で、発表翌日の23日だけで1ドルは235円から約20円下落、1年後には150円台まで円高が進んだ。
急速な円高で不況に落ちるのを懸念した日銀(澄田智総裁)は金融引き締めには動かず、日本企業の驚異の対応力を示した一方で、超低金利政策の影響でカネ余りが顕著となる。それが不動産や証券投資などに集中して狂気に近いバブル景気を出現させた。

一方、ドル安で輸出競争力を高めるはずのアメリカでは、貿易赤字に劇的変化はなく、逆に過度のドル安がインフレ圧力を増す懸念が広がり、87年2月には、ドル安を防ぐためのルーブル合意に行き着いたが、ボタンの掛け違いは修正できず、ドルの下落を止められなかった。

日本経済は、バブル経済崩壊後、「失われた20年」と言われる不況の底に呻吟することとなり、80年代以降に生まれた日本人は好景気というものを一度も体感していない。このようにプラザ合意はさまざまな側面に巨大なマイナス効果をもたらす根源となった。

この円高政策を主導した中曽根首相、竹下蔵相の責任はまことに重い。(つづく)


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