2021年10月15日号 Vol.408

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
[Detail, 43] バックナンバーはこちら

デイヴィッド・ロックフェラー氏と単独会見
挑戦こそがイノベーション

1980年、アブダビを訪問したロックフェラー氏(右)Hashmoder / wiki.org/ CC

1984年秋、ロックフェラー財閥の3代目当主、デイヴィッド・ロックフェラー氏と単独会見した。これはテレビの仕事とは関係なく、編集主幹を務めていたビジネスニュースの特集記事を書こうと無手勝流でコンタクトした結果、意外なほど容易にOKが出た。

ロックフェラー家と言えば、スタンダード・オイル(現在は、大半がエクソンモービル)と現在のシティバンクの創業家で、モーガン、メロンと並ぶアメリカ3大財閥の一角を占める「華麗なる一族」。マンハッタン中心部にロックフェラー・センターという広大な不動産コンプレックスを展開するほか、リンカーン・センターやワールド・トレード・センター、国連本部などの建設でも主導的役割を担い、マンハッタンの都市計画の中核をなしている。また、ニューヨーク州知事からフォード政権で副大統領となったネルソン・ロックフェラー氏や、ウエストヴァージニア州知事から同州選出の連邦上院議員を4期20年務めたジェイ・ロックフェラー氏、60年代終わりにアーカンソー州知事を務めたウィンスロップ・ロックフェラー氏らの政治家も輩出している。

一族の3代目を継いだデイヴィッド氏は、1915年6月にジョン・ロックフェラー2世の5男1女の末子として誕生、ハーヴァードで、絶えざるイノベーションこそが経済を成長させると説いていた経済学者ヨーゼフ・シュンペーターの教えを受け、イギリスの社会主義知識人が起こしたフェビアン協会について卒業論文を書いた。その縁で同協会が創立に関与したロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学して修士号を得てから、シカゴ大学で経済学博士を取得した。経済学の学徒としては誠に充実し、かつ華々しい学歴と言える。

卒業後は、第2次大戦の期間を通してニューヨーク市長を務め、今は空港の名にもなっているフィオレロ・ラグァーディアの秘書・補佐官として働いた後、46年に当時のチェース・ナショナル銀行(現JPモーガン・チェース)に入り、61年には会長、69〜81年にかけてはCEOを務めるなど、アメリカ人には珍しい同一企業一筋を貫いた。

そんなデイヴィッド氏には、親日家としての一面があった。91年に勲一等瑞宝章を贈られたことからも並々ならぬ功績と評価があったことが知れる。ジャパン・ソサエティーの建つ土地はロックフェラー家が提供したもので、78年からは長く名誉会長の座にあった。知る人ぞ知る「3極委員会」は73年に「日米欧委員会」の名で同氏が創設を主導した。その背景には、世界に影響力を持つ個人・企業・団体などの代表が年に一度会合して時々の重要問題を非公開で話し合い、「影の世界政府」とも言われていた「ビルダーバーグ会議」に日本の代表を招こうとオランダ王室に提案したが断られ、それなら自分たちで日本を含めた仕組みを作ろうと、民主党系の政治学者で後にカーター政権で安全保障問題補佐官も務めたズビグネフ・ブレジンスキー氏と図って、宮沢喜一 (後の首相)、大来佐武郎(官僚出身のエコノミスト、外交官)氏らを招いた勉強会を開き、これを翌年には「日米欧委員会」に発展させた。日本に好感を抱いていても、ここまで真剣に舞台裏で動き、実現させる意思と能力を持つ人は滅多にいない。貿易摩擦が燃え盛る日米関係についてどのような考えを持っているか。

ロックフェラー・プラザに向かう私は冷静だった。アメリカを代表する大金持ち、超大物に会うという緊張や興奮はなかったが、指定されたフロアでエレベーターを降り、受付からデイヴィッド氏の部屋に導かれるあたりから、さすがに緊張感がつのってきた。ふくよかな絨毯を敷き詰めた廊下がかなり長く続くのだが、その壁面には、小ぶりではあるが、いずれ名のある画家の作品であろうと思われる額がズラッと掛けられていた。それが尽きたあたりにやや大型のドアがあり、案内の秘書がそれを開けると、整然と、そして上品な調度がしつらえられた部屋にご本人が立っていた。

「今日は私のために時間をとって頂いて有難うございます。お会いできて、とても喜ばしく、そして誇りに思います」と挨拶すると、にこやかな笑みを湛えて「どうぞ、お座りなさい」――

設定された会談時間は30分、礼節にのみとらわれている余裕はない。まず、日本に尋常でない関心と好意を持っている理由を伺う。「私は銀行家として戦後日本の有り様と足取りに注目してきた。そこで感じたのは、日本人が本当に真面目に国家と経済の再建に取り組んできた姿だった。私は民主党を支持しているが、ルーズベルト大統領が日本を戦争に追い込んで行く政策には疑問を感じていた。特にオイルの禁輸で日本を窮地に追い込んだことは間違いだと思っていた。むろん、当時の日本の軍国主義政府に多くの誤りはあったが、太平洋を挟む両国が戦争するのは無益でしかない。不幸な戦争が終わって、日本は全てを失った。が、そこからの立ち直り、resilienceには目を見張るものがあった。私は銀行家として、苦境から立ち直ろうとする個人や企業を少なからず助けてきた。戦後日本の姿を見れば、手を差し延べたくなるのが自然の情でしょう」――

私は自分の新聞記者としてのほぼ原点が64年東京五輪の取材だったことを話し、日本の復元力には誇りを感じてきたが、資源のない日本は輸出で国力を強化するしかない、そこに非難を強めているアメリカの現状について問うた。

「目先の貿易赤字を強調して騒ぐのは、どこの国にもあることで、ここから日米関係が戦前のように悪化するとは全く考えていない。ただ、日本人はもっと発言しなければいけない。デモクラシーとは、人も社会も国家も、自由に議論を闘わせて、そこから解決策を導き出して行く、そういう制度です。黙っていては何も伝わらない。声の大きい側の言いなりになるだけです」――

この答えで、デイヴィッド氏が日米欧委員会の創設に尽力した理由も解けた。

氏が経済学の師と仰いだシュンペーターにも話が及ぶ。私も経済を学んだ。出身校の慶應義塾は、当時1年生にいきなりポール・サミュエルソンの『Economics』の分厚い原書を教科書として与え、経済原論の講義が始まったことを話して、「サミュエルソンもシュンペーターの弟子の一人ですね」と持ちかけると、にこやかな笑顔がまた広がった。

「彼の言うイノベーションは、技術の革新に留まらないのです。モノであれ、それを作り出す技術であれ、また販売先やサプライヤーの獲得、独占を打破する組織の実現……すべてにわたる新しいチャレンジこそがイノベーションなのです。それを実行するのがアントレプレナーなんですね。イノベーションの実行にはおカネが必要です。それを借り出す信用創造もイノベーションになる」――立て板に水の如き講義だった。

この会見から5年後、89年にロックフェラー・センターを三菱地所に売り渡したときには、アメリカ各界や一般市民から強い批判の声が上がり、デイヴィッド氏がそれを一身に受けた。その一方でジャパン・バッシングに油を注ぐ形にもなったが、間もなく訪れた不動産不況で95年には運営会社が破産、地所が買収した14棟のビルのうち12棟は売却された。この取引でロックフェラー側は損をするどころか、大きな利益を出したという。そうした“したたかさ”も当然の帰結であった。

2017年3月20日朝、自邸で睡眠中、うっ血性心不全で101年の生涯を閉じた。(つづく)


HOME