2021年10月1日号 Vol.407

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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日本の「常識」を海外で実践
高品質・高生産性を確立

2020年1月、アメリカ・オハイオ工場における四輪車の生産台数が2000万台を達成。記念すべき2000万台目は「アコード ハイブリッド」(上記写真)Photo courtesy of American Honda Motor Co., Inc

私が国際ジャーナリズムに足を踏み入れてからの半世紀余り、日米関係では貿易摩擦がほとんど恒常的にぶら下がっていた。

1970年代初めの繊維摩擦では、アメリカ側が1917年にできた対敵通商法まで持ち出して輸入制限の構えを見せたのをはじめ、70年代以降の家電、自動車、半導体などでは通商法201条、301条、スーパー301条などの適用をちらつかせて対応を迫ってきた。日本側はその都度、輸出自主規制や現地生産などで対応してきたが、いずれも業界任せで、日本政府が必要以上にウロウロして決断が遅い、守勢一本で攻めの知恵がない、など不満に思えることが多かった。当時の通産省は強力な産業政策で「無敵豪腕のMITI = Ministry of International Trade and Industry」と言われていた割には守りに弱かった。

一方、この頃の日本企業の拡大志向は猛烈と言って良いほど強く、それが洪水のような対米輸出を生んで、アメリカ側には、放置すれば国内の市場が日本製品で埋められてしまうという危機感がつのっていた。そうした日本企業の強さに着目したハーヴァード大学のエズラ・ヴォーゲル教授が79年に『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本を書いて日米両国でベストセラーになる。

後年、ヴォーゲル教授にじかに会った際、「私はアメリカの企業や当事者たちに、日本企業の強さの根源がどこにあるかを説いて、このままでは、次の世紀は日本の世紀になる、だから冷静に我が身を正して欲しいと警告するつもりであの本を書いた。ところが、アメリカはもう日本との競争に負けたと断定したような受け取られ方をした、日本では勝った勝った、もうアメリカに学ぶものはなくなったといった熱風みたいなものが吹く結果になった。これは不本意でしたね」と苦笑されていた。

ここでは自動車をめぐる摩擦について振り返ってみたい。

発端は70年代、2度にわたって起きた石油危機だった。ガソリン代が急騰したうえ品薄にもなってサービスステーションには長い車の列ができた。消費者は燃費の優れた小型車に走る。発売されて間がないホンダのシビックなどが人気を集め、大型でガソリンをガブ飲みするアメリカ車は売れなくなった。ビッグ3の業績は軒並み悪化、労働者の大量レイオフに走らざるを得なくなる。81年5月には、レイオフされた労働者が日本車をハンマーで叩き壊すパフォーマンスをして、それがテレビで大きく報道された。

フォードとUAW(全米自動車労組)は共同して74年通商法301条に基づき輸入日本車からの救済策を政府に要請したが、審査したITC(国際貿易委員会)は、「自動車産業の不振は内需の落ち込みと石油製品高騰に伴う需要の小型車シフトに業界の対応が遅れたためで、輸入車の増加によるものではない」との裁定を下し、政府の輸入制限措置を認めなかった。

それでも連邦議会下院が12月に、日本製小型車の輸入を制限する交渉の権限を大統領に与える決議を圧倒的多数で可決。上院財務委・国際貿易小委員会のジョン・ダンフォース委員長(共和、ミズーリ州)は、向こう3年間、日本車の輸入を年間160万台に制限する法案の提出を表明するなど対日強硬論は強まるばかり。80年大統領選挙で圧勝したロナルド・レーガン大統領は、選挙戦中に自動車産業救済を公約に掲げ、政権発足早々には閣僚級のタスクフォースを設けて救済策の検討を始めた。

こうした圧力を受けて日本政府と自動車業界はお定まりの自主規制を導入、80年には200万台を大きく超えていたのだが、どういうわけか80年実績を182万台として初年度168万台に減らすと約束したが、この程度でアメリカ国内の規制圧力がゆるむものではない。家電業界の例に倣って、自動車の現地生産を決断せざるを得ない情勢が日増しに強まっていった。

真っ先に対応したのはホンダだった。オハイオの州都コロンバスの郊外、メアリズビルという町に4輪車工場を建設、82年11月からアコードの生産を開始した。正確に言えば、ホンダは日本車批判の高まりを見て現地生産を決断したわけではない。79年9月に2輪車の現地生産を始めており、翌80年1月には日本車メーカーとして初めて4輪車のアメリカ生産を2輪工場の隣接地で始めることを発表していた。ホンダはかねてから「市場に近いところで生産する」ことを基本方針にしており、早くからアメリカでの生産拠点を探していた。

翌83年6月には日産もテネシー州スマーナでダットサントラックと乗用車サニーの生産を開始した。両社の生産開始から比較的早い時期に工場を見せてもらった。第一印象をあえて一言で言えば、「ホンダの工場は真っ白、日産はダーク」――。

ホンダはどの工場でも従業員に真っ白のつなぎの作業服を着せているのだが、オハイオ工場では、その白のユニフォームの上に出ている顔もほぼ真っ白、つまり白人が大多数だったのに対し、日産の工場は黒人の比率が高かったのだ。61年にケネディ大統領がアファーマティブ・アクションの大統領令を発したのを契機に、事業者は従業員の採用にあたり、当該コミュニティの人種比率に応じた割合でマイノリティも雇用することとされていた。ホンダは現地生産を決めるのに当たって、工場用地となる町の人種比率を精緻に調べたのであろうと推測する。メアリズビルの住民は当時95%が白人だった。上から下まで真っ白になる道理である。日産スマーナ工場は南部テネシー州だからアフリカ系の比率は当然高くなり、雇用した従業員にもその比率が反映した結果だったろう。
違いは白黒の問題だけではなかった。ホンダの工場が日本のマザー工場そのままに、床にチリ一つ落ちていない磨き上げた清潔さだったのに対し、日産工場のそれは、ソーダ飲料の空き瓶や空き缶がゴロゴロ転がり、清掃も行き届かない、アメリカのビッグ3の工場と変わらない風景が広がっていた。

ホンダが最も重視したのは、こうした工場内の規律だった。アメリカでの生産という重大な決断をするに当たって、ホンダ流の高い生産性をどう確保するかが一番の課題であり、そのためには生産現場での従業員の規律を日本国内の工場と同じレベルに保たなければならない。人種差別という意識の問題ではなく、さまざまな角度から検討を重ねた挙句、最初の工場は意識と練度の高い労働者が確保しやすい地点を選んだ結果だった。

工場の一角に新入りの労働者向けに、車の組み立てを流れ作業でなく一人で完結させる場所を設けて教育していた。こうした独自の工夫もあって、後に複数車種を単一ラインで生産することになっても、スムーズに流れるようになっている。

トヨタは、ホンダと日産に遅れただけでなく、最初の工場はGMとの合弁という道を選んだ。カリフォルニア州のベイエリアに共同工場を建て、それぞれの小型車を別のラインで生産した。単独の工場は、ケンタッキー州ジョージタウンで86年1月から操業を開始した。この慎重さはトヨタという会社の社風なのか、アメリカでの現地生産に確信が持てなかったのか、私には分からないが、生産開始から40年近い歳月が流れ、工場の数も格段に増えているが、トヨタは現地生産車が総販売台数の70%程度なのに対し、ホンダは90%超を占めている。(つづく)


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