2021年8月5日号 Vol.403

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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過酷な体験が植え付けた
国家への不信感

収容時に撮影された人々(オシフィエンチム博物館展示) Photo Author: Bubamara

1981年5月15日、ワルシャワからの生放送を終えると、私たちは自主管理労組「連帯」の反政府運動に揺れるポーランド国内の旅に出た。引率したのは東京からやってきた番組のチーフ・ディレクター、早河洋氏。私より4期若い37歳だったが、偉丈夫とも言える体格だけでなく、スケールの大きい構想・判断・行動力が際立っていた。それでいて決して無理はしない抑制心も備わっている。その後「ニュースステーション」の初代プロデューサーから編成、報道局長を経て、2009年には長く朝日新聞出身者の定席となっていた社長の座をつかみ取り、CEO兼務の会長にもなって、長くテレビ朝日経営の総指揮をとっている。同氏との長いお付き合いはこの時に始まった。

ポーランドは面積31万3千平方キロ、日本の約8割に相当する国土に当時の人口は3500万人。南部の山岳地帯以外は広大な北ヨーロッパの平野が広がる。

ワルシャワを出て南南西にある古都クラクフに向け、チャーターした車を走らせる。

見渡す限りの農地が続いていたが、畑に人影が少ない。居ても、見るからに高齢で、しかもトラクターなどの農耕機が極端に少なく、馬にスキをつけた旧態依然たる農法に頼っている。なるほど、これはひどいーー。

実際この目で見たポーランドの農業地帯には、これが社会主義国かと驚く実態があった。全体の8割をも占める自作農は、農機具を買うために融資を受けようにも、遅れている集団化を進めたい政府の干渉で、なかなか順番が回ってこない。そういう状況に愛想をつかして若者は都市に出て行き、絵に描いたような高齢化が進んでいた。

肥沃そうな広大な農地があるのに、なぜ食料不足が起きるのか、ワルシャワ滞在中に単独会見したマリノフスキー副首相の答えは苦渋に満ちていた。

「工業と農業の近代化は本来、平行して進められるべきだったが、工業が先行してしまい、農村の労働力が都市に吸収される一方、農村の人手不足を補う農業機械の導入が大幅に遅れた。農業集団化の遅れもあって農産物の流通にも多くの問題がある。こうした矛盾と不均衡から食糧の供給に深刻な不安定を招いてしまった」。

副首相は「デモクラシーの欠如」とも明言したうえで、「それが民衆の不満を呼び、長期ストの原因にもなった」と、ソ連の高官が聞けば絶句するようなことまで述べていたことが当時のメモ帳に記されている。こうした感性はバリバリの党官僚であるチョセク労組担当相にも共通しており、「社会主義体制下のスト権について法律的な議論は専門家に委ねる」としたうえで、労働者がストに走らざるを得なかった客観条件に一定の理解を示し、「いま、この国で最も必要なのは、全国民が一致して経済を立て直すこと。その点でヴァウェンサ連帯議長との間に見解の違いはない」とも語った。連帯の要求がエスカレートして社会主義の枠を超えてしまう恐れがないのか問うと「連帯は悪魔でも天使でもありません」と含蓄に富んだ答えを残していた。

このように、当時のポーランド政府高官の間には、にわかに沸き起こった連帯ムーブメントへの対応で明らかに当惑と混乱が見られ、社会主義統治の常道ともいうべき弾圧・抑圧・鎮静化の道を避けているフシがあった。問題は、こうした状況を宗主国ソ連がどう見るか。56年のハンガリー暴動も、68年のプラハの春も、現地政府が断固たる対応をしないことに業を煮やしたソ連が軍隊を投入して圧殺したのだった。

ところが、一般のポーランド市民は、そうした懸念に表向き全く否定的だった。根拠を問うと、ソ連自体が厳しい経済困難に直面していて、ポーランドに大部隊を送り込む余裕がないというのだ。しかも、自由化要求の原動力になっている連帯への支持は拡大する一方で、軍事力だけでこの流れを変えることはできない、という確信が広がっているようだった。

確かに、東欧最大の領土と人口を持っていたポーランドを平定するには少なくとも40万の兵力が必要とされたが、当時のソ連は79年暮れに侵攻したアフガニスタンで、ペルシャ湾岸を含むイスラム諸国から流入したゲリラの激しい抵抗に遭い、後に「ソ連のベトナム戦争」と呼ばれたほど、対応に手を焼いていた。そのうえ、力づくでポーランドを平定した場合、3500万人に必要な食糧、生活物資を供給しなければならない。膨大な対外債務の即時決済も迫られる。西側諸国は様々な経済制裁を発動するだろう。

当時のソ連に、それに応える能力があるとは思えなかった。

しかし、ポーランドの地政的環境を考えると、手放しの楽観も許されない。ハンガリーやチェコのように西側への出口が開かれている国でさえ、ソ連の軍事介入にはひとたまりもなかった。ソ連の相対的な力が低下しているとはいえ、ポーランドは東欧の内懐に深く抱え込まれた出口のない国である。それが社会主義を放棄する気配を示した場合、ソ連は万難を排しても陣営内に止めおこうとするだろう。ポーランドから帰った後、アメリカ国務省の官僚や国際問題の専門家に聞いてみると、「仮にソ連が軍事介入したとしても、アメリカが実質的な救援の手を差し伸べるわけには行かない」という見方で一致していた。「そんなことをすれば間違いなく第3次大戦になる。だから現状としてはポーランドが東側陣営に止まってくれることを望むしかないのです」――引退した元駐ポーランド大使の言葉だった。

ワルシャワで目撃した「農民連帯」の誕生を巡っては、その適法性を審査するワルシャワ地裁前に国内各地から集まった農民代表らが、まだ20代の若き指導者ヤン・クーワイ議長を胴上げしながら「ポーランドは我らがもの」と連呼していた。私は、こうした光景を眺めながら、これが「束の間の春」に終わらなければ良いが、と心底思ったものであった。

南に下ってチェコとの国境に近いところにオシフィエンチムという町がある。ここにドイツ名で言えば誰もが「ああ」と肯くアウシュヴィッツ第一強制収容所があった。ナチス・ドイツがユダヤ人抹殺のために設けた、強制収容所というより、ホロコーストの舞台で、レンガ造り2階建ての建物群がポーランド国立の博物館になっていた。殺された人々から刈り取ったおびただしい量の毛髪、それで編んだ布地、人の皮膚で作った電灯の笠、人の脂肪で作った石鹸……社会部記者として数多くの修羅場を体験してきた私にとっても正視に耐えないものが果てしなく陳列されている。同行した安藤優子さんが、気分を悪くして倒れてしまった。眼鏡、義足、洗面器、歯ブラシなどの遺品も山のように積まれていた。そして、収容者が「入浴」と騙されて導かれたガス室……ポーランドは、こうした「場」を提供させられた。そこにこの国の悲劇的な運命と歴史が凝縮されているように感じたものだった。

古くは、東方のロシア人、西方のドイツ人、南方から蒙古人やトルコ人に攻められ、18〜19世紀にはロシア、プロシャ、オーストリアに、第2次大戦ではソ連とドイツに領土を分割されていた。そして大戦後は、東側を大きくソ連に削り取られ、敗戦国ドイツの旧領土へ理不尽極まる平行移動を迫られた。こうした過酷な体験が、ポーランド人の心に、国家や体制への深い不信を根付かせてしまったように思えたのである。(つづく)
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