2021年7月9日号 Vol.401

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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キッシンジャー氏と
日本初のテレビ会見

フォード大統領(左)と会話するキッシンジャー氏(1974年、ホワイトハウスで)

(左から)スコウクロフト氏、ブレジンスキー氏、アレン氏、タワー氏

私が関わることになったテレビ朝日の番組は、前回述べた仕掛けの壮大さだけでない、凄さがあった。
1981年が明けると、アメリカ政界の超大物ヘンリー・キッシンジャー博士の生出演を企画し、発足したばかりの共和党レーガン政権の外交政策の見通しと現下の国際情勢についての分析と解説を依頼した。これほどのビッグネームが日本のテレビ番組に生出演するのは不可能と思えた時代。しかし博士は「発言が編集されて真意が伝わらない恐れのある事前収録より生出演の方が良い」と承諾してくれた。博士のテレビ出演は、むろん日本で初めてのことだった。酷寒の季節、しかも日本との時差があるのでニューヨークでは早朝である。スタジオのある47丁目2番街のビルに分厚いコートに身を包み悠然と現われたとき、私の心には熱い感動が走ったものだった。

キッシンジャー博士はドイツ生まれのユダヤ人。15歳だった1938年にナチスの追及を逃れてアメリカに亡命、マンハッタン北部のワシントンハイツに住んだ。ニューヨーク市立大から陸軍勤務(情報部門、退役時軍曹)を経てハーヴァードに進んで政治学と国際関係を学び、「Peace, Legitimacy, and the Equilibrium」というタイトルの論文で博士号を取る。「合法性と均衡の下での平和」とでも訳そうかーーフランス革命とナポレオン戦争で混乱した欧州の秩序再構築のために開かれた1815年のウイーン会議について、会議を主宰したオーストリアの後の宰相メッテルニヒ外相と、アイルランド生まれながらイギリスへの併合を主導、イギリス代表として会議に出席し、中心的役割を演じたカースルレー子爵に焦点をあて、フランスへの懲罰よりも力の均衡の回復こそ重要としてConcert of Europeと呼ばれた全欧州の協調が実現した、と分析。「合法性」は必ずしも「正義」と一致するものではないが、協調より対立の多かった当時の欧州の5強、英墺独仏露のリーダーが合意したことで「合法性」が担保され、その後百年にわたって大戦争のない均衡重視の国際秩序が実現した、と論じた。サマリーを読んだだけでも、緻密な論理を引き出した広範な研究努力の程が偲ばれる力作であった。

ハーヴァードで教授を務めるうち、アメリカの外交政策に影響力を強め、69年のニクソン政権発足と同時に、国家安全保障担当の大統領補佐官を委嘱され、73年9月からは国務長官として、ニクソン、フォード政権の終わりまで、アメリカ外交の舵取りを担った。この間、密かに中国を訪問して毛沢東、周恩来と接触を重ね、国交正常化につながるニクソン訪中を実現したのをはじめ、73年の第4次中東戦争では、テルアビブ、カイロ、ダマスカスを何度も往復するシャトル外交を展開して収束に努めた。

ニクソン大統領が選挙で公約したベトナム介入の終結に向けては、レ・ドク・ト北ベトナム共産党中央組織委員長と困難な秘密交渉を重ね、73年1月にパリ和平協定の調印に漕ぎ着けた。同年3月末までには米地上軍の撤退が完了、61年ケネディ政権による本格介入以来、最盛時には地上部隊だけで55万人もの兵力を投入、5万8千人近い戦死者を出したベトナム戦争にアメリカなりの終止符を打った。また、ソ連とのデタント=緊張緩和にも大きな役割を果たした。

博士は偉大な現実主義者である。対中正常化、中東やベトナムの和平、対ソ緊張緩和など、業績のすべてが黒子のような役割に徹した結果だったが、たとえ反対や障害が多くともアメリカにとって現実の国益が何か、冷静に分析したうえ、それを実現する方向と方策を定め、そこに向かって周到な術策を構えて精緻な交渉に臨み、結果を出した。

明晰無比の頭脳に加えて、柔軟な発想と想像力、相手を説得するに足る論理の構成、そして弛まぬ忍耐心抜きには、どれ一つ実現し得なかったであろう。稀代の国際政治家、外交家であったのと同時に、戦略思想家としても一頭地を抜いた存在であって、日本の政治家、外交官では、足元にも遠く及ばない。

ベトナム和平への功績で73年のノーベル平和賞も受賞している。

番組出演にあたっては、質問事項の事前提示など、要求は一切なかったが、こちらの問いかけに間髪を入れずトツトツとしたドイツ訛りの強い英語で淀みなく語られる博士の言葉には、言い知れぬ重みがあった。しかも簡明直截でわかり易いのである。

博士とテレビで会見する機会は、この後も2度あったが、質問が終わるとすぐに、「それには3つの見方があります」とか、「それを話すには3つの前提があります」など、「3つ」という数字を使って話し始めることが多かった。一例を挙げれば、ポジティブな見方、ネガティブな見方、どちらでもない中間的な見方を提示して状況を鋭く分析したうえで「私自身はこう思う」と結論を提示する、博士独特の演繹法だった。法科論理とでも言おうか、複雑多岐にわたり、込み入った状況をいとも軽やかに解きほぐし、整然と筋道立てて論証する……聞いていて、「この人は何と頭の良い人だろう」と感心させられるのだが、そこに曖昧な表現がつけ入る隙はなかった。それでいてふんぞり返ったり、高飛車な姿勢や、思い上がりを感じたことは1度もなかった。難解な用語で煙に巻くこともなかった。

むろん、事態がすべて博士の予言通りに動いたわけではなかったが、その時点では聞く人々を納得させるに十分な説得力があった。

パーティーや空港のロビーなどで偶然出会うと、その都度、博士の方から歩み寄られて「Good to see you」と馴染みのある低音を発しながら、分厚い掌で私の手を幾度も包み込む、そういう謙虚で温かみのある人でもあった。



国家安全保障補佐官の経験者では、他にもブレント・スコウクロフト(75〜77年)、ズビグネフ・ブレジンスキー(77〜81年)、リチャード・アレン(81〜82年)氏らとも1対1の会見をしたが、話の中身の濃さ、それに要する時間の短さ、という点でキッシンジャー博士の右に出ることは決してなかった。とくにブレジンスキー氏などは、事前に質問内容をしつこく聞いてくる。それに応じて原稿を事前に用意したいようだった。そして彼の答えはいつもクドクドと長かった。事前収録の場合は、自分のコメントをどのくらいの秒数で使うか、これもしつこく聞き出そうとする。「お話を伺ってからでないと、どこをどれくらい使うかなど、お答えできません」と、強い言葉を返したこともあった。NHKの解説番組のように、問答のすべてを事前に原稿にしておく猿芝居のような真似を、私たちはしたことがなかった。

政界要人で言えば、上院軍事委員長を務めていたジョン・タワー氏 (共和、テキサス州)との会見も印象深い。日本の“安保タダ乗り”が米側高官の口の端にのぼるようになった頃で、平和憲法を国是とする日本では制約が多いとするこちらの説明にジッと耳を傾けた挙句、「憲法は時代に応じて変えるべきだ」と投げつけるように答えてきた。憲法改定に向けた国民感情が未成熟だと重ねて述べると、それを遮るように「日本人はもはや日本のことだけ考えていてはいけないのです。世界の情勢を広く見渡して、アメリカの同盟国である日本がどういう責任が果たせるか、真剣に考えて欲しい。アメリカだって、いつまでも日本の保護者でいるわけにはいかないんですよ」と熱っぽく迫ってきた。

この論理は40年近くを経過した今も、全く生々しい。(つづく)
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