2021年6月25日号 Vol.400

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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ロスから荒廃したNYへ
第一声は五番街の歩道から

1980年代、5番街・東52丁目付近の様子(http://80s.nyc から)

1980年9月、まる5年暮らしたロサンゼルスからニューヨークに移った。テレビ朝日と契約した番組出演のためではあったが、契約は1年ごとの更改。「クビになれば、またLAに帰る」つもりで、住まいはマンハッタンの東93丁目の角に完成したばかりの賃貸アパートの1寝室を借りた。オンサイトに駐車場があり、ドアマンが常駐、との条件は満たしていたが、専有面積は西海岸に比べると極端に狭い。仮住居感覚だったのが、ここに8年も暮らすことになる。

それにしても、ロサンゼルスとニューヨークでは、すべてが違っていた。転居直後の印象を、89年に出した『マンハッタン・ブロードキャスティング』という本(日経通信社)に、次のように記している。

……マンハッタンに住んでみて、改めてこの都市の荒廃に目を見張らされた。車社会のロサンゼルスで四通八達したフリーウェイ網に慣らされた身には、おびただしい数の違法駐車と、ルールやマナーをわきまえぬドライバーの群れ、大小さまざまな穴ボコだらけの路面に心底腹が立った。行き交う人々はすべて能面のような仏頂面で、ひたすら前方の一点を見据えて速足で通り過ぎていく。摩天楼の谷間の街路は、どこも陽光をさえぎられて暗く沈んでいた。カリフォルニアの、あの底抜けの明るさと人々の温かみは、いったいどこへ行ったのだろう。冷たい異国の地に足を踏み入れた感があった。

……カリフォルニア時代のくせで、ビルのエレベーターに乗り合わせた人に「ハーイ」と声をかけた途端、相手の猜疑に満ちた視線に遭遇して、わが顔に浮かんだ微笑を凍結させたこともあった。

……不平不満がつのる中を時間だけは容赦なく過ぎて、冬が駆け足でやってきた。運の悪いことに、この年のアメリカ東部の冬は数十年ぶりという異常寒波に見舞われた。とにかく寒いのである。羽毛入りの分厚いコートに身を包んでいても、2ブロックも歩くうちには腹が立ってくる。一番街九十三丁目の二十二階に定めたアパートから見下ろすと、イーストリバーの水面を流氷がいっぱいに埋めている。買い物に出た妻が、車のトランクに野菜を積んで十数分ドライブしてきたら、その野菜がコチコチに凍っていたと報告する。「これが人間の住むところか!」……

ビジネスニュースの支社はグランドセントラル駅真上のビルに移した。一方テレビ朝日は、ニューヨーク支局とは別に、番組独自のオフィスを国連本部近くの2番街46丁目のビルに構えた。1ブロック北のダグ・ハマーショルド・プラザ地下に借りるスタジオに至近という位置関係。ここに本社から派遣されたプロデューサーとディレクター、それにカメラマン、私がロサンゼルスから連れてきたK君を含む制作スタッフ数人が常駐する。想像したよりずっと多人数の陣容だ。そこにアメリカ人の若い女性がいた。アシスタントとして出演するアリスン・トールマン。当時はまだエール大学の学生で、躾の行き届いた才媛という言葉がピッタリの清楚で聡明な娘さんで、父親が外交官で日本駐在が長かったので日本語も堪能。父親は外交官を退官後、趣味で集めた日本の美術品をもとに「The Tolman Collection」を創設していた。いまアリスンは、ニューヨークと東京にギャラリーを持つこのコレクションのオーナーにおさまっている。

東京のスタジオはというと、朝日新聞編集委員で後に素粒子を担当した轡田隆史氏が柱で、その脇に、後にフジテレビに転じて長年ニュース番組の中心にいた安藤優子さん。安藤さんはまだ上智大学の学生だった。

こうして慌ただしく番組開始の日を迎える。再び前記の著書からーー
……私が、日本のテレビに向けて、アメリカから第一声を上げたのは、一九八〇年十月十日、ニューヨークの五番街五十二丁目の歩道からだった。ちょうどそこには、日本航空の支店が店を構えていて、その一角も借用しながら、東京のスタジオと生の掛け合いを演じたのである。

……その日の朝早く、現場に着いた私は、あまりの大仕掛けに度肝を抜かれたものだった。まず五番街から東に入った五十二丁目の路肩には、大型の中継車と電源車がバンパーを接してデンと座っている。五番街に目を転ずると、これまた超大型のクレーン車が停まっていて、そこから先端に箱のついたクレーンが、五番街上空にニョッキリと鋼鉄の腕を伸ばしていた。その箱の中にはテレビカメラと、そのオペレーターが入っていて、そこから五番街の車と人の流れを映像におさめる……

……時には、三十五ミリのカメラもぶら下げて身軽に飛び歩くことを旨とした新聞記者稼業を長年つとめてきた私には、何とも大袈裟なテレビの仕掛けにショックを受けると同時に、改めて我が身の置かれた立場の重さに冷汗を禁じ得なかったことを思い出す。

……この五番街からの映像と音声は、中継車から上へ高く伸ばしたアンテナからマイクロ波となって七、八百メートル離れたエンパイア・ステート・ビル屋上のアンテナにぶつけられ、さらにマイクロ波のままウオール街近くの地上局に届く。ここからアメリカ国内の伝送に使われる通信衛星に打ち上げられ、いったんカリフォルニア州北部の中継局に下ろされた後、さらに太平洋をひとまたぎする別の衛星に打ち上げられて日本に届けられるのだという……

この五番街から何をしゃべったかーーアメリカの最新事情を伝えたはずだが、この年は大統領選挙の年だった。4年前に登場した民主党のジミー・カーター大統領は、何事にも決断が鈍く、とくに2度のオイルショックで疲弊した経済への対策に見るべきものがなかった。この年2月には公定歩合が史上最高の13%に引き上げられ、消費も沈滞していた。イランのイスラム革命で米大使館が占拠され、50人以上の館員が拉致されて1年以上になる。企図した救出作戦は惨めな失敗に終わってもいた。「経済にも、軍事にも、強いアメリカの再建」を旗印にした共和党ロナルド・レーガン候補が絶対有利ともささやかれていた。

放送中に独立系候補として大統領選を戦っていたジョン・アレキサンダー下院議員が通りかかり、立ち話のインタビューをしたのを記憶している。「勝算は?」の問いに、「選挙はやってみなきゃ分からんよ」と答え、「日本向けニューズショーの生放送中だが、日本のオーディエンスに何かメッセージを」と水を向けると、「日本は大切な同盟国だ。私が大統領になれば、その関係をさらに強固にする」と優等生の答えだった。

前記著書の続きーー
……この番組が発端となって、その後『TVスクープ』(毎週金曜夜)、『ニュースステーション』(月〜金曜夜)と、実に八年の長きにわたって、ニューヨークをベースに、ニュース番組の送り手を務めることになった。この間には、衛星を使う伝送機器や技術も大幅に進歩して、屋外からの生中継も、ここに記したほど大袈裟なことはなくなった……

初めの五年間こそマンハッタンの貸しスタジオを使用したが、『ニュースステーション』で生中継の頻度が増えたことに伴い、五番街五十一丁目、ロックフェラーセンターにあるテレビ朝日支局の一隅から、まことに簡単な体裁と装備で行うようになった……(つづく)


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