2021年5月28日号 Vol.398

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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第二の人生に不安なし
「現地除隊の企業戦士」

(左)大平正芳、第68・69代 内閣総理大臣、(右)ピーター・ユーベロス、1984年ロサンゼルスオリンピック大会組織委員長

読売新聞記者として16年弱、入社した1962年、日本は国富の大半を失った敗戦の惨禍からの復興をほぼ終えて、世界を刮目させる高度経済成長の庭先にいた。社会には活気が満ち、人々の目には未来を確信する輝きが宿っていた。そういう時期にジャーナリズムの門をくぐった私は、新生日本を世界に見てもらおうという三大国家プロジェクト(64年東京五輪、70年大阪万博、72年札幌冬季五輪)のすべてを間近に取材し、国際化する足取りの先端を見、技術革新を実感し、市場競争に向けた企業の旺盛な意欲と行動を目の当たりにし、勤勉な人々の営みの鼓動に接してきた。

活気と活力がもたらすさまざまなひずみにも遭遇し、権力者に宿るドロドロした悪しき欲望の発露を見せつけられもした。総じて言えば、美醜混在、希望と躍動と波乱に満ちた時代を至近距離から目撃するジャーナリストの特権を享受した。仕事だから面白いことばかりあったわけではむろんない。けれども、目前の使命に全力を尽くすことを常に信条として来た。その結果、人並み以上の評価を得ることもできた。その感性は健在でまだ38歳。南カリフォルニアの青空の下で始まる第二の人生に不安はなかった。

退職を届け出た東京からロサンゼルスに戻り、『US-Japan Business News』(以下ビジネスニュース)の編集責任者としての日常が始まる。

この週刊紙は、大阪で発行されていた経済雑誌に働いていたM氏がロサンゼルスに来て本社との関係がスッキリしなくなり、退社して、一緒に赴任したカメラマンが本業のU氏と発刊したもので、購読料は取っていたが、事実上は、邦人・日系企業や商店からの広告収入で成り立っていた。
それだけに扱う記事の多くが広告欲しさの企業寄りで、ジャーナリズム本来の要素には欠けるものがあった。会社として広告に依拠せざるを得ない事情は十分理解していたが、私が編集責任者になった以上、題字に相応しいホンモノの紙面を作りたい。繁く発表されるアメリカの経済指標を日本語の記事にし、ビジネス誌やウオールストリート・ジャーナル紙などを丹念に読むことでアメリカ経済界の話題や日本企業と製品の評判を拾っていった。今のように、ウェブサイトの検索で安易に広範な情報を得るなど考えられもしなかった時代、すべてハードコピーを購読して読み漁った。

むろん、記者会見や独自取材のインタビューも日常的だった。先に書いた五輪組織委ピーター・ユーベロス会長との単独会見などはビジネスニュースの特ダネになった。それに紙面のレイアウトと見出し付けも大半は私の仕事だったから、多忙を極める日々が続く。手足となる編集スタッフを何人か採用したが、すべてがズブの素人で、取材作法や作文術、紙面制作のイロハから教える必要があり、私にはさらなる負担となる。が、それだけではなかった。

当時のロサンゼルスには、日本語のテレビ放送をする会社が3つあって、それぞれが週1、2日、UHF局の放送時間を買って番組を流していた。私は、そのすべてから頼まれて、ひとつの局では生放送のニュース番組のアンカーと解説、他の2局では事前収録で週ごとのニュース解説をしていた。

日本のマスメディアに接することが少ない上に英語がまだ不得手な駐在員家庭では、日本語で話されるニュースや解説が重宝されたし、日系人の家庭では、日本や世界のトップ・ニュースをわかりやすく解説する番組に関心が高く、おこがましい言い方になるが人気を博していた。とりわけ、アメリカに住んで一匹狼同然の私には、気を遣わなければならない相手はいない。私の感性の赴くまま、正直に言葉にすると、大概は厳しい権力批判になる。

特に日本の永田町、霞ヶ関……日本独特と言っていい政治と官僚システムの動向には批判が向く。前例依拠の事なかれ主義、タテ割りの縄張り意識、政党内や省庁内の「調整」と称する不合理な手間暇のかけ方とそれに伴う決断の遅さ、世界の常識に背を向けたガラパゴス的な思考とセンス……日常化したさまざまな不条理を俎上にあげ、手厳しい言葉で紡いで、それが視聴者にもズバリ響いて共感を呼んだ。

しまいにはビジネスニュース自体がテレビ放送を手がけることにもなった。1980年5月に大平正芳首相に対する内閣不信任決議案が可決される。大平内閣は、その前年11月に、福田赳夫前首相との「40日抗争」という自民党内の激しい対立の結果生まれたが、自民党内には事実上の分裂状態が続き、社会党が内閣不信任案を出すと、反主流派が本会議での採決に公然と欠席して可決させてしまった。社会党の不信任案は年中行事とまでは言わずとも、自民党の長期政権に揺さぶりをかけ、野党の存在感を示す道具で本気半分のパフォーマンスだったから、可決されたことには社会党が一番驚いた。大平首相は、これを受けて衆議院を解散、新聞などは「ハプニング解散」と書き立てた。

解散に伴う衆院議員総選挙の日程は、予定されていた参院議員通常選挙と重なり、日本憲政史上初の衆参同日選挙として6月22日に投開票が行われることになった。その開票速報をロサンゼルスのテレビでやろうというのだ。

私としては、初めは生放送のニューズ番組をやっている会社に「特別番組」を持ちかけたのだが反応が鈍い。それなら自分たちでやろう、と決断して、私自身がスポンサーと直接交渉することにした。米国トヨタと米国松下電器を標的にして、まずトヨタを訪ねる。応対してくれた牧野さんという社長に計画を話して番組提供をお願いすると、「内田さんから広告を頼まれたのは初めてのことで、ビックリはしたが、趣旨には賛同します。もう松下には行かんで下さい。ウチが全部引き受けます」と言って下さった。

日本語テレビ会社でチーフディレクターをしていたK君が、「活字メディアの勉強もしたい」と、ビジネスニュースに入社していたので、渡りに船、制作の段取りは彼に一任。日本では開票日翌日の午前に大勢が判明すると判断して、ロサンゼルスでは日本の投開票日である22日夜にUHF局の時間枠をとり、スタジオも予約、単独提供の米国トヨタからCM素材も届いて生放送を決行した。ロサンゼルスの日系社会が、初めての衆参同日選挙の最終結果を日本以外の世界で、最初に知ることになった。

選挙中の6月12日に大平首相が急死するという二重のハプニングも起きた。内閣不信任を巡る対立が尾を引いて分裂選挙の様相だった自民党だが、首相急死の事態を受けて「弔い選挙」となり、党内主流・反主流派が一転、融和団結した結果、衆院は当時の総議席511の単独過半数を超える284議席を得る大勝。参院でも改選議席の半数を超す69議席を獲得し、6年間続いていた衆参両院での与野党伯仲状態は解消した。

79年の5月ごろだったと思うが、週刊文春の巻頭グラビアで取り上げられた。フリー写真家として欧米をまたに活躍していた栗原達男氏が『現地除隊の企業戦士』といった視点で企画を持ち込んだらしい。私と同じ時期に音響機器の米国TEAC副社長を辞めて起業していた松林幹雄氏(故人)らと、仕事場や休日に夫婦同士でゴルフ場に出かけている姿などが紹介された。(つづく)


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