2021年2月26日号 Vol.392

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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米国に乗り込んだ
スポーツ選手たち

ドジャースタジアム(Photo: public domain)

読売新聞のロサンゼルス在勤中はスポーツの記事もよく書いた。ゴルフと野球、セーリングが多かったが、全米水泳を取材したこともあった。大半が東京本社運動部の発注で、運動部からすれば、東京オリンピックを取材した頃の部員であり、任せておけば水準以上の記事は出稿してくれるという信頼感もあっただろう。他社が部員を出張させるイベントを私に任せてきた。

セーリングはオリンピックで担当した専門種目だが、この時期は日本から単独航海して西海岸にたどり着く冒険者が多かった。ゴルフはロサンゼルス赴任後に始めたばかりのビギナーだったが、夢中になっていた分、観戦しているゲームの全てに集中して自分も楽しんでいた。76年12月に村上隆と山本善隆が日本代表となったワールドカップ、77年1月には出場10人の一人に樋口久子さんが選ばれたワールドシリーズが、それぞれ、車で2時間ほどのパームスプリングスで開かれ、取材した。

野球は、運動部にいた頃に日本のプロ野球、特に巨人軍のゲームに何度も出かけたから、取材・出稿手法は叩き込まれている。また、ロサンゼルスに赴任した直後から、元巨人軍の投手で、完全試合を日本で最初に達成した中上英雄さん(旧姓藤本、ハリウッド在住)と近づきになり、暇さえあれば、ロサンゼルス・ドジャースやカリフォルニア・エンゼルス(当時)のゲームに同行してもらい、クラブハウスに入ったり、試合前の練習をグランドに降りて見た後、プレスボックスでゲームの成り行きを注視したものだった。

その過程で、伝説的速球投手のノーラン・ライアンや、ロン・セイ、スティーブ・ガーベイら鉄壁とされたドジャース内野陣の面々と直に会って会話する機会もあり、貴重な経験をさせてもらった。ついでに言えば、メジャーリーグの広報は、当時から至れりつくせりで、プレスボックスに入ると、出場両軍選手たちの前日までのスタッツがびっしり書き込まれた資料の束を手渡され、スコアカードの用紙もついていたから、筆記具さえ持参すれば仕事ができた。

77年7月、日米大学野球の対抗戦があるというので運動部からオーダーが来た。

この対抗戦は、大学野球の優秀選手を選抜した両国のチームが7試合を戦って勝敗を決するもので、1972年から両国交互に開催されている。6回目を迎えたこの年はアメリカが開催国で、ロサンゼルスの南カリフォルニア大学デドー球場で2試合の後、中央部のネブラスカ州オマハに舞台を移して3試合、再びロサンゼルスに戻って2試合という日程だった。この7戦全部を見て、イニングスコアと前書きから戦評、雑観、出場選手の成績を一覧できるボックススコアまで、すべて一人でこなした。

日本代表には、後にプロ野球で活躍した面々が揃っていた。投手陣に江川卓、香取義隆(以上巨人)、松沼雅之(西武)、捕手に中尾孝義(中日など)、野手では原辰徳(巨人)、石毛宏典(西武、ダイエー)、古屋英夫(日本ハム)、豊田誠佑(中日)、植松精一(阪神)らだ。

7月1日付運動面の前触れ記事で始まり、『江川―米パワー打線』の4段見出し。

……投手陣は、やはり江川(法大)中心。「ボクが打たれると、チーム全体の士気に影響する。過去のデータを調べてみると、失策や四球で走者を出したところでホームランを打たれたケースがほとんど。だから一発を極力警戒していく。速い球で向かっていくより、チェンジアップを多投、打たせてとるピッチングを狙う」そうだ……話題の新人原(東海大)は「体調は万全、なんとかヒットを飛ばしたい」と張り切っている……

ところが4日付運動面、第1戦は、『日本緒戦逆転負け 力投江川拙守に泣く』の大見出し。5回までに3点先行した日本が、6回までに2安打2失策で同点とされ、8回2死から内野安打と二盗、捕手の悪送球で三塁に走者を進められ、中前に落ちるポテンヒットで決勝点を献上、江川は自責点0で負け投手になった。

翌日の第2戦を伝えた4日付夕刊も、『原、同点打むなし 延長14回敗れる』。

……6打席2安打2四球2打点――原が日本チームを一人で背負ったような活躍だった。
守っても得点圏に走者を置いた一、二回、たて続けに難しいゴロをさばき、七回にも三塁前ゴロを思い切りよく突っ込んで一塁に刺し、ピンチを未然に防いだ……「九回の同点打は真ん中高めのストレート。左投手で球が食い込んでくるから初めから右をねらっていた。右脇の押っつけがよくきいたし、自分でも“やった”と思った」そうだ……

連敗してオマハに乗り込んだ日本は、第3戦は江川が投打に活躍、第4戦は松沼(東洋大)が完封してタイに持ち込んだが、第5戦、2対1で惜敗。9日付運動面の記事。

【オマハ(米ネブラスカ州)七日=内田特派員】オマハ入りして2連勝、ロサンゼルスに帰る前に何とか勝ち越したい日本だったが、日系三世タツノ投手の快投に打線が沈黙、カド番に立たされた……ハワイ生まれのハワイ育ち……高校時代は27勝1敗。昨秋ハワイ大に進学するとたちまちエースとなり、12勝2敗、奪三振160という立派な成績で全米代表に選ばれた。「日本にはまだ行ったこともないし、日本語も話せないが、トウキョウ・ジャイアンツでぜひやってみたい」という……

ロサンゼルスに戻っての第6戦は、ドジャースタジアムという晴れ舞台だったが、6対3で敗れ、7戦も負けて2勝5敗に終わる。12日付運動面に送った総評。

……日本は五年連続タイトルを奪われた。七試合を通じての両軍の得点はアメリカ27―日本23で、大会前に江川が予想した通り接戦の連続にはなった。しかし実力的には点差以上の開きがあった。まず打撃でいうと、第六戦までアメリカを上回る安打を打ちながら、それを集中できなかった……日本打線の層の薄さ、速いカウントで好球を見逃す消極さ……勢いバントを多用せざるを得なくなり、しかも決定打を欠く状況となった。

アメリカが走力を生かし、盗塁で走者を得点圏に進めていたのとあまりに対照的。日本は走っても焦りから暴走というケースが多かった……守備面でも日本は大事なところでバッテリー・エラーを連発、自ら傷口を広げた……アメリカに学ぶ点は、毎度のことながらスピードだ。脚力や打球の速さに体力以上の開きがあったし、試合運びのテンポにもそれが現れた。一言でいって、日本の野球にはダイナミズムが欠けている……

オマハで「美味い牛肉でも食べませんか」と誘った石井藤吉郎総監督(早大)が食事中に漏らした言葉が今も耳に残る。「今の学生は何か勘違いしている。チームワークという言葉を“もたれ合い”と同義語にしてるが、とんでもない間違い。野球は投手と打者の格闘技だよ」――。

この年は秋のワールドシリーズでヤンキースとドジャースが対戦した。ドジャースがブルックリンにいた頃からの宿敵同士で、東西2大都市の決戦。1勝1敗の後の第3〜5戦までのドジャースでの3試合をつぶさに見て記事を送った。

第3戦のドジャースの先発は、肘の手術に名を残しているトミー・ジョンだった。チームドクターだったフランク・ジョーブ博士が、損傷した靭帯を切除し、正常な腱の一部を移植する手術を考案、その第1号となったのが74年秋のことで、1年以上のブランクを経て76年に復帰、カムバック賞に輝いた。77年は20勝7敗という成績を上げていたが、この日は初回にヤンキース打線の集中打を浴びて負け投手。第4戦はヤンキースの若手ロン・ギドリー投手に完投を許し、第5戦でようやくドジャース打線が火を噴いて10対4の大勝。2勝3敗でニューヨークに戻り、次の試合でヤンキースが勝って決着した。(つづく)



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