2020年11月37日号 Vol.387

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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活力満ちる米政治
上院に日系人議員3人


1976年は大統領選挙の年でもあった。

予備選挙段階では、カリフォルニア州の若き知事だったジェリー・ブラウンが民主党の指名を求めて名乗りを挙げ、その選挙運動をいくつか取材した。私より一つ年長で37〜38歳という若さが瑞々しく、眩しくもあったが、それ以上に興味を惹かれたのは選挙運動そのものだった。

まず「選挙はやかましいもの」という先入観が裏切られた。インターネットなどない時代だから、彼がいつどこに現れるか、わからない。キャンペーン事務所に電話して日程を聞き出すことから始め、予定される遊説会場、と言っても街角の小さな広場で待ち受ける。車列というほどでもない数台の車が到着、そのうちの一台から健康そうに日焼けしたジェリーが降り立つと、すぐに数十人程度の市民たちを前に話し始めた。得意の環境問題で、ロサンゼルスのスモッグを取り上げ、「これは全て私たちが作り出したものだ。作ったものが不都合なら、それを消し去るのが責任というもの。私は、それをやるために、この国の大統領を目指す」――一語一語噛み締めるように説いて、聴衆と握手したりハグしたり、親しみやすさを演出してさっと次の会場に去って行った。まさに草の根から支持を掘り起こす姿勢だ。近年、大袈裟な集会を派手に開いて、割れんばかりの大声でウソも大ありの自慢話をし、それを集票につなげたトランプ大統領などとは完全に別世界の趣があった。

「大統領の犯罪」ウォーターゲート事件で政治不信を広げてしまった共和党は気勢が上がらず、政権奪還を目指す民主党に明らかに勢いがあったが、ジェリーはその勢いに乗れなかった。当初は知名度が低く目立たなかったジョージア州のピーナツ畑から出てきたジミー・カーター知事が保守的な南部諸州を総なめして、いつの間にか先頭に立ち、モンタナ州選出のウオルター・モンデール上院議員をランニングメイトに勝ち上がった。カーターは本選挙も制して大統領になったが、経済面では公定歩合が20%に達する異常な状況を生み、対外政策でもイスラム革命を起こしたイランで大使館を占拠され、外交官ら52人が人質として拘束された上、救出作戦は砂漠の砂嵐に遮られて大失敗するなど惨憺たるカジ取りで、一期だけの政権に終わった(拘束されていた人質は81年1月レーガン大統領の就任式の日に劇的に解放された)。モンデール副大統領は84年大統領選で民主党候補に指名されたが、高支持率で再選に臨んだレーガン大統領に惨敗。クリントン政権下の93〜96年に駐日大使となり、沖縄・普天間基地を北部の辺野古に移転することで日本に返還する約束をした。その約束から20年以上、未だに実現していないが、この責任は日本側にある。

ジェリー・ブラウンの方は、何事もなかったように知事職に戻り、2期8年を全うした後、日本に旅して禅を学んだりしたが、政界への未練が捨て切れず、99年からオークランド市長を2期、2007年には州司法長官となり、11年には2度目の知事に就任して再び2期8年を勤め上げるという異色の経歴を刻んだ。

そのジェリーの近況が、今年9月のニューヨークタイムズに載った。カリフォルニア北部で牧場を経営、数分毎にスマホを覗いて大気の質を点検し「不健康、と出ている」と呟く。大規模な山火事のせいなのだが、「山火事だからってどこに行くと言うんだ。カナダか? アイオワか? でも今度はすごい竜巻に襲われるゾ。気候変動は今や世界中の問題だ。移住して解決できるものじゃないよ」。現実の中で問題を解決して行こうという変わらぬ意志の強さを感じさせるインタビュー記事だった。
私はこの76年以来、アメリカの政治をずっと見つめてきたが、政治家もメディアも政策そっちのけで発言の揚げ足取りをしては「政局」づくりに憂き身をやつす日本の政治に比べれば、はるかに活力に満ち、ダイナミックだと感じている。

ただドナルド・トランプという異形の大統領が出現するに及んで、アメリカの大統領選挙の仕組みに疑問を持たざるを得なくなったのも事実である。この半世紀の間に全米の得票総数では負けたのに大統領選挙人の獲得数で勝ったケースが2度あった。1度は2000年選挙のジョージ・W・ブッシュ(息子)で、2度目が2016年のトランプだ。

ブッシュは現職副大統領のアル・ゴアを相手に疑問票を何度も数え直したフロリダ州で連邦最高裁の判断を仰ぎ、選挙人数わずか5人差で辛勝したが、全米の得票数では45万票余少なかった。トランプの場合は、得票数で300万票近い大差をつけられたが、中西部のラストベルト諸州を僅差で押さえたために選挙人の獲得数では逆に306対232の大差がついた。負けたのがヒラリー・クリントンという人柄に問題の多い候補だったのもトランプに幸いしたが、常識では納得しがたい結果だった。

何が原因かと言えば、人口の多寡に応じて州毎に割り振られる大統領選挙人を大半の州でwinner-take-allという総取り制にしていること。得票数に応じた案分比例にすれば不公平感や不合理性がかなり薄まるはずだが、なぜか実現しない。建国以来、各州に主権を認め、その連合体としての連邦国家アメリカではあるが、大統領選挙人を案分比例にしたことで州の独立性が失われる訳でもあるまいと思う。

さて、76年選挙では、民主党の強いカリフォルニアで日系人の共和党上院議員が選ばれた。この年は11月2日が火曜日で選挙の投開票日。3日に書いた原稿が4日付夕刊第二社会面に『日系タカ派、華麗な再登場』の見出しで載ったーー

【ロサンゼルス三日=内田特派員】カリフォルニア州に米本土初めての日系上院議員が誕生した。サミュエル・イチヤ・ハヤカワ博士。カナダ生まれの二世で七十歳。米国有数の言語学者だが、分野が分野だから一般にはなじみが薄い。それが民主党進歩派の若手ホープとして売り出しの現職・ジョン・タニー議員(John Tunny)に挑戦、「骨とう品的がんこオヤジ」「タカ派の権化」などと攻撃されながら圧倒的に強い民主党勢力をねじ伏せて当選した……以下は選挙中のハヤカワ博士発言録――「年寄りで何が悪い。私の母親は九十二歳でピンピンしているし、父は九十一歳で亡くなったばかり。七十歳はまだ働き盛りだ」「タニー氏とのテレビ討論などご免こうむる。私は学者として講演に慣れているから、たくさんの聴衆を集めることができる。タニー氏のために、なぜ私が視聴者を集めてやる必要があるのかね」……

「再登場」の見出しがついたのは、ベトナム反戦の学生運動が燃え盛っていた68年にサンフランシスコ州立大学長に就任、過激派学生の群れに割って入り、暴力に対する暴力の虚しさを説いて学生ストを収拾、全米の話題になった過去があったからだ。

本番の選挙だけでなく、共和党の予備選でも、ニクソン政権のRobert Finch保健教育厚生長官、Alphonzo Bell下院議員、John Harmer州副知事といった錚々たる有力候補を破って指名を獲得していた。

ハヤカワの当選で、ダニエル・イノウエ、スパーク・マツナガ (いずれもハワイ州)とともに定数100の上院に3人の日系議員が居並ぶことになった。(つづく / 一部敬称略)



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