2020年10月16日号 Vol.384

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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火星軟着陸に成功
乾いた湖底の風景


バイキング1号から送られてきた火星表面の写真(1976年7月20日) First Clear Image From Mars Surface (Viking 1, July 20, 1976) Photo by NASA

前に書いたように1976年はモントリオール五輪を取材することになっていた。開会式が7月17日に開かれるので、本来なら10日前後には現地入りする必要があったが、ロッキード事件の嘱託尋問が長引いただけでなく、他にもロサンゼルスを離れられない事情があった。

火星探査のバイキング計画がハイライトを迎え、無人探査船の火星表面軟着陸が迫っていたのだ。月面探査のアポロ計画などは、テキサス州ヒューストンのNASA施設が管制を担ったが、バイキングではロサンゼルス北西郊パサデナ市にある通称Cal Techカリフォルニア工科大学のジェット推進研究所Jet Propulsion Laboratoryに管制センターがあった。ロ事件嘱託尋問の合間をぬって取材登録しプレスセンターに入るバッジを取得することからパサデナ通いを始めた。

バイキング1号は当初、独立200年の7月4日に軟着陸を予定していたが、目標地点の地形に難点が多く延期した。独立記念日に送った記事――

【パサデナ(米カリフォルニア州)四日―内田特派員】米建国二百年記念日の劇的な軟着陸を目指した米航空宇宙局NASAの無人火星探査機バイキング1号は着陸目標変更のため依然火星の自転周期に合わせた静止軌道を周回しているが……独立記念日の四日未明……「米国革命二百年」と書かれた赤、青、白三色のマークが鮮やかに地上のテレビに映し出されている。NASA科学陣は「一年以上も前にテープに組み込まれたマークが、こうしてはっきり確認できたことは、積み込んだカメラシステムが正常に機能している何よりの証拠だ」と自賛しているが、その口調の裏には独立記念日の軟着陸を果たせなかった無念さがにじみ出ていた……

しかし2週間余り後には待望の瞬間がやってくる。7月21日付朝刊は一面トップに『火星軟着陸に成功、乾いた湖底の風景』という特大の横見出しで、このビッグニュースを伝えた。

【パサデナ(米カリフォルニア州)二十日―内田特派員】「火星に生物はいるか」――人類積年の懸案に答えようという米航空宇宙局NASAの無人火星探査機バイキング1号は、米太平洋夏時間二十日午前五時十一分五十六・八秒(日本時間同日午後九時十一分……以下カッコ内は日本時間)、クリセ盆地西斜面への軟着陸に見事成功した。くしくもアポロ11号が月面に初めて人類の足跡をしるして七年の記念日……昨年八月二十日、ケープカナベラルから打ち上げられて三百三十六日目の快挙である。バイキング1号は、ただちに着陸地点周辺の写真を撮影して地球への伝送を開始、引き続き気象、地質面の調査を始め、二十八日からバイキング計画最大の焦点である生物探査に入る……

4段通しの前文と並んでAPが配信した火星表面の生々しい写真、そして本文が始まる。

……二十日午前一時五十二分(午後五時五十二分)、着陸機は軌道船を離れ、約三時間余にわたる着陸への降下軌道に入った。管制センターの指示に従い……大気圏突入、パラシュート開傘、降下エンジン噴射……着陸機は秒速約二・四四メートルのゆっくりしたスピードで、予定時刻より七秒遅れという正確さで目標地点への降下に成功した……着陸機は、普通乗用車とほぼ同じ大きさで重さ約五百九十キロ。この小さな機体にカメラ、気象測定機器、地震計からこの探査最大の目的とされている生物探査のための“小型研究所”というべきさまざまな測定・分析器具が内蔵されている……午前五時五十五分、地上のモニターテレビの画面に写真第一報が映り始めた……約五分後、次第に鮮明になり、人類が初めて間近にする火星表面は、細かい砂の上に大小の石が散らばった、ちょうど川か湖の底のような映像だった……

軟着陸の瞬間から朝刊の締切り時刻までには3時間余りの余裕があったが、その間にも事態は刻々と動く。プレスセンターには自前のテレックス機を手配しなかったので、送稿はセンター内にある電話器を使って料金受取人払いで吹き込む。オペレーターに東京の電話番号を伝え、コレクトコールを頼むのだが、読売本社の代表電話では交換台が出てしまうので、社会部の直通電話にした。アメリカのオペレーターは相手がコレクトコールを受けるかどうかを英語で聞く。電話を取る記者によっては「え? これ英語だ」と受話器を投げ出してしまう者もいて難儀した。私は「イエスと言ってくれ」と叫ぶのだが、届かなかった。

原稿は筋書きだけ書いて吹き込みながら考え考え肉付けする手法をとった。原稿なしで即興の文章を作る「勧進帳」を何度もやってきたから手慣れてはいるが、この時の送稿量は半端でなかった。一面の前文・本記だけでも相当な量だが、それに加え社会面にも一面を上回る量の原稿を送った。
第一社会面トップ。『くっきり神秘の映像、歓声の中息づまる送信』の見出し。

【パサデナ(米カリフォルニア州)二十日―内田特派員】人類はついに火星をもとらえた……ロサンゼルスの北西、パサデナの山裾に作られたカリフォルニア工大ジェット推進研究所。バイキング管制の中心だ。そのプレスセンターに置かれたモニターテレビが、弾んだ声で「着陸」を伝えた。シャンパンが抜かれ、拍手と歓声が渦巻いた。あの歴史的な月面着陸から七年、その記念すべき日に、一時は後退を伝えられた米国の宇宙科学が再び凱歌をあげたのだ……

前文に続く本記。

……パサデナの夜が白みかけた頃から、バイキングの管制センターは張り詰めた緊張に包まれた。モニターテレビの画面には時間の経過を告げる数字が並ぶ。午前五時すぎにそのテレビがいよいよ最後の一瞬を伝え始めた。「降りている、まっすぐ降りている。軟着陸は青信号だ。青信号……毎秒一・五度……」そして五時十二分、踊り上がらんばかりの声が成功を伝えた。「タッチダウン。われわれは、いま着陸した。いま着陸した。一号カメラ、オン。すべて快調だ」……着陸から約四十分後、モニターテレビの左隅に細長く火星表面の映像が現れた。プレスセンターに陣取った各国の記者団も、それが初めて間近に見る火星表面との対面とは信じられなかったほどだ……カメラは驚くほど鮮明な映像を送り続け、やがて着陸機の脚も見えてくる……カメラはさらに視野を広げて、着陸から約一時間十五分後に、私たちは初めて火星の地平線を見た。荒涼とした砂漠のような地面が続き、その果てにわずかに凹凸をもたせて右下がりに傾いた地平線がくっきりと見える。三・四億キロ。途方もない距離を隔てた惑星の地面を、いま、人類は、我がもののように眺めている……「インクレディブル」――プレスセンターの若い女性スタッフが画面を食い入るように見ながら何度も繰り返した。彼女の言葉はここにいるすべての人に共通した実感だった……

アメリカのメディアは当然のことながら数人がチームを組んでいる。日本でもA紙は科学部の専門記者を送ってきていた。読売新聞はすべて、私一人でやってのけた。それでも圧勝だった。(つづく)


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