2020年9月4日号 Vol.381

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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アメリカ社会の実態伝え


映画「カッコーの巣の上で」 主演のジャック・ニコルソン © 1975 - Warner Bros. Entertainment


GHQから取調べを受ける アイバ・トグリ・ダキノさん September 1945 / Public domain

ロッキード事件
クラッター氏に接触


ロッキード事件が降って沸いて、ロサンゼルスに帰った私は早速、バーバンクのロ社本社に出かけ、責任ある幹部との面会を求めたが、当然のことながら玄関払い。電話ではラチが開かないのが目に見えているから懲りずに日参しても、広報担当が「当社が告発されている事柄について、あなたに今話すことはない。何か発表することがあれば、こちらから連絡する」と答えるばかり。丁重な口調ではあったが、取材拒否の厳たる姿勢は崩さなかった。むろん、コーチャン副会長やクラッター前日本支社長の住居など教えてくれる筈もなかったが、そこは蛇の道は蛇で、住所と電話番号は突き止めた。

コーチャン氏の自邸は、支局から遠くないベルエアという高級住宅地にあり、正面から訪問を試みたり、帰宅時刻を見計らって近くに張り込んだりしたが、先方のガードも堅い。本人と夫人の実像だけは確認できたが、それ以上深入りすれば、こちらが不法侵入などに問われる。やがて警備員が配置され、近寄ることもできなくなった。

ロサンゼルスに常駐する唯一の有力紙特派員としてジリジリするような焦燥感の中で、3月下旬にクラッター氏をようやくつかまえた。同氏はロ社を退任して、ロサンゼルスの西北に隣り合うパサデナ市、4階建てのコンドミニアムに住んでいた。その邂逅を伝えた1976年3月27日付け朝刊社会面トップ記事(5段見出し)の一部。

……クラッター氏は散歩かゴルフの練習でも終えてきたような軽装で帰ってきた……身分を名乗ると、切り口上で「名刺を出しなさい」……アパートに入り込み、帰りを待ち構えていた非礼を詫びると、微笑みが返ってきた……「日本では様々な憶測が流れている。今回の献金問題について日本に伝えたいことはないか」と切り出すと「議会の公聴会で証言した以外に新たに申し上げることは何もない。もし日本で私に対する誤解があったとしても、今のような状況では何を言っても役には立つまい」と、核心に触れる事柄には、いっさい口を閉ざす。「アメリカ人、日本人を問わず、これまで新聞記者とは誰とも会わなかった」「自分の今の気持ちが変わったら連絡するよ」と言い残してドアを閉めた……

アカデミー賞授賞式
「カッコーの巣の上で」

この間も、ロッキード事件だけに専念していた訳ではない。3月29日夜には、アカデミー賞の授賞式が行われた。赴任直後にグレーターLAプレスクラブに入会、その延長線でハリウッド映画記者会にも登録していたので、新作映画の試写会への招待は頻繁に届いていたから、話題作と言われるものは見逃さないようにしていた。この年のオスカーは、前評判通りOne Flew Over the Cuckoo's Nest(邦題・カッコーの巣の上で)に集中した形で、作品、監督(ミロス・フォアマン)、主演男優(ジャック・ニコルソン)、主演女優(ルイーズ・フレッチャー)など5部門を独占した。

主人公が、刑務所での強制労働から逃れるために精神異常を装って精神病院に入院、患者の人間性まで奪おうとする病院から自由を勝ち取ろうとする物語で、看護婦長が定めるルールに片端から反抗。グループセラピーなどやめてテレビでワールドシリーズを観たいと患者総員の多数決を取ったり、無断外出して海釣りに出掛けたり、クリスマスには病棟に女友達を連れ込み酒も持ち込んで大騒ぎ。翌朝、乱痴気騒ぎが発覚し、婦長から叱責された患者の一人が自殺してしまうと、主人公は激昂し、彼女を絞殺しようとしてロボトミー手術を施され廃人同然に。日頃から仲の良かったアメリカ原住民の患者が主人公を窒息死させて脱走するーーアメリカン・ニューシネマの代表作とされた。

私が書いた31日付け第二社会面の記事では次のように紹介している。
……さまざまな形で個人の自由や尊厳が束縛され、傷つけられているアメリカ社会の実態を「精神病院」にたとえて、鋭く、そしてペーソスを交えて告発した……

この年のオスカーは、他にも話題が多かった。まず、外国語映画賞に『デルス・ウザーラ』が選ばれた。ソ連と日本の合作映画でロシア語の作品だが、あの黒澤明監督が、ロシア人探検家の探検記録に依拠して脚本を書きメガホンを取った、広大なシベリアの風景が印象的な映画だった。授賞式に黒澤監督は出席しなかったが、私が送稿した記事では……ジャック・バレンティ米国映画協会会長が「私は、自分自身の最後の日まで映画を作り続けるが、これからの映画界には若い人々の力が絶対に必要だ。世界の若者よ、共に手をつなごう」とのメッセージを読み上げ満場の拍手を浴びた……とある。同部門には熊井啓監督の『サンダカン八番娼館・望郷』もノミネートされていたが、クロサワの名声の前に涙を呑んだ。

さらに、長編ドキュメンタリー映画賞に、石原プロ制作の『エベレスト大滑降』が選ばれた。ご存じ三浦雄一郎氏の大冒険を撮ったもので、実際には、5年以上前の70年7月に松竹系で公開されていたが、それがカナダに売られ、再編集した英語版となって出品されたのだった。この経緯を伝えた10日後の夕刊原稿によると……ロサンゼルス・ユナイテッド・シネマセンター(当時既にこういうシネコンがあった)で、受賞発表の翌日から上映を始めると、日を追って観客が増え、日曜日には五百の客席が毎回満席になった……新聞、テレビも「目もくらむばかりの迫力、爽快な後味、掛け値なしのユニークさ」(LAタイムズ)、「スポーツ映画として最上級であるばかりでなく、人生の夢に挑む男の物語」(夕刊紙ヘラルド・エグザミナー)、「すべての映画愛好家とスキーヤーを魅了するすてきな記録映画」(CBS系KNXTテレビ、デイビッド・シューハン氏)など最上級の賛辞を贈っている……

アカデミー賞の授賞式は翌年以降も取材したが、77年 (76年度)は、ウオーターゲート事件を扱った『大統領の陰謀』(アラン・バクラ監督、ダスティン・ホフマン、ロバート・レッドフォード主演)で決まりだと思った作品賞が、シルヴェスタ・スタローンの脚本・主演による『ロッキー』にさらわれてしまった。78年はウディ・アレン監督・主演のロマンスコメディ『アニー・ホール』、79年はベトナム戦争を扱ったロバート•デ・ニーロ主演の『ディア・ハンター』が受賞した。

市民権を回復した
東京ローズ

さて、東京ローズという女性をご存じだろうか。戦争中、日本軍に協力、前線の米軍兵士の戦意を削ぐための宣伝放送に従事したとされた日系人で、本名はアイバ・トグリ・ダキノさん。戦後、国家反逆罪に問われ、49年にサンフランシスコの連邦裁で罰金1万ドル、懲役10年、米市民権剥奪という重い刑を受けていた。当時ハワイ州には、唯一の日系人知事ジョージ・アリヨシ氏がおり、アイバ・トグリ委員会を設けて救済運動を続けていた日系市民協会の要請を受け、フォード大統領に特赦を求める請願書を送っていたことが分かった。76年4月14日付け社会面に載った内田電の終わりの方。

……トグリ夫人は、今年七月四日の米独立記念日に六十歳の誕生日を迎える。本人は「静かにしておいて」という心境と伝えられるが、戦争中、日系人を強制収容したのは誤りだったと連邦政府が認めるなど、日系人に対する見直し機運が高まってきたこともあって、トグリ夫人の特赦についても有力紙やテレビが大きく報じ、同情の輪が次第に広がっている。日系市民協会では、建国二百年の独立記念日前になんとか特赦を勝ち取り、トグリ夫人の市民権を回復させたいと言っている……

そう、この年は独立二百年でもあった。この請願が功を奏してトグリ夫人は、翌77年1月19日、フォード大統領が任期最後の仕事とした特赦で晴れて市民権を回復したのだった。(つづく)


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