2020年6月19日号 Vol.376

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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ロス赴任直後に大事件
P・ハースト逮捕を速報



帰国する前任者一家を送り出して4日目くらいだったろうか、「どうせ暇だろう」とタカを括っていたところに、24時間ほぼ間断なくニュースを吐き出しているAP通信のティッカーが「至急報」を示す信号を鳴らした。

取り付いてみると、「パトリシア・ハースト逮捕」の一報。9月18日の昼下がりだった。発信地は同じカリフォルニアのサンフランシスコ。ロサンゼルス特派員としてのデビューとなる仕事は、こうして始まった。社会部出身の特派員にはうってつけと言って良い素材だが、予備知識はほとんどない。そこでLAタイムズのmorgue(資料室)のおじさんに電話して、矢継ぎ早に質問をぶつけた。

まずパトリシア・ハーストが何者かと言えば、新聞王とされたランドルフ・ハーストの3女で、これより1年半余り前の1974年2月に家出してボーイフレンドのアパートにいたところを左翼過激派のSLAシンバイオニーズ解放軍に誘拐された後、自らもグループに加わり、ライフル銃で武装して銀行強盗による資金調達作戦などに参加していた、誘拐された当時はカリフォルニア大バークレー校の2年生で20歳の誕生日を目前にしていた……などのことが判った。

次にSLAなる過激派の素性だ。Symbionese Liberation Armyといい、「共生」を意味するsymbiosisから命名したらしい。「共生解放軍」とでも言おうか。若い黒人の脱獄囚が人種差別撤廃や富の格差解消のための革命戦争を叫んで設立した小人数の組織で、リーダー以外の7人はすべて白人。1973年11月にサンフランシスコと同じベイエリアのオークランド市で教育庁幹部を襲い、一人を殺害するテロ事件を起こした。犯人2人が逮捕され、その釈放を要求して起こしたのがパトリシアの誘拐事件だった。

日本でも『新聞王令嬢誘拐事件』として報じられたのは記憶していたが、組織の詳しい情報までは知る由もなかった。後刻、より詳しい情報がLAタイムズのティッカーから流されたので、それも参考にした。AP電を読むと、逮捕したのはFBIサンフランシスコだという。そこで、ロサンゼルスのFBIに電話して、サンフランシスコ・オフィスのコンタクトを聞いた。その際、聞かれるままに、日本の大新聞のLA特派員だが、まだ赴任直後で勝手が判らないことを説明すると、親切にも現地メディア・オフィスの電話番号を教えてくれたばかりでなく、「発表資料をテレックスで送ってもらうと良い」と助言もしてくれた。

現代ならオンラインという手段があるが、当時はパソコンもないし、ファクシミリさえ、まだ普及前という時代。伝送手段としてはテレックスが唯一、最速の利器だった。

言われた通りFBIサンフランのメディア・オフィスに電話すると「すぐに来い」という。私はLAにいて、飛んでゆく時間的余裕がないことを告げると、「面倒だな」と言いながらも、プレス発表の資料を丸ごとテレックスで送ってくれた。それを読んだ後、質問の電話を入れると、今度は、逮捕に至る経緯など、かなり丁寧な応答だった。

サンフランシスコの邦字紙にも電話して生々しい逮捕劇の詳細を期待したが、彼らも通信社が頼りで、現場さえ踏んでいないと言う。「こりゃダメだ」。APワイアが至急報のサインを鳴らしたのが午後3時過ぎだったろうか、時差の関係で日本は翌19日の早朝。夕刊に出稿することを外報部に連絡して、取材と原稿に取りかかり、大半はテレックスで送信、午後8時ごろには全ての作業を終えた。

【ロサンゼルス十八日=内田特派員】米連邦捜査局(FBI)は十八日午後、昨年二月四日に過激派シンビオニーズ解放軍(SLA)に誘拐された後、一味に加わっていたパトリシア・ハースト(21)と、同じくSLAのウイリアム・ハリス(30)、エミリー・ハリス(28)夫妻ならびにSLAシンパとみられる日系人ウエンディ・ヨシムラ(32)を逮捕したと発表した。……FBIスポークスマンによると、十八日午後、ハリス夫妻がサンフランシスコ市内にいるとの情報に基づき、市内をしらみつぶしにあたっていたところ、下町のメキシコ系住民の多いミッション街で夫妻を発見、ただちに銃砲不法所持容疑で逮捕した。この後、FB Iは近くの隠れ家に踏み込み、パトリシアとウエンディの二人を見つけ、合わせて逮捕した。……パトリシアは昨年二月四日、カリフォルニア州バークレーのアパートで男友達と一緒にいたところを一人だけ誘拐され、……四月に入ると、パトリシアの武装した姿を写した写真とともに「わたしはSLAとともに戦う」との肉声テープが届けられ、このころからパトリシアはSLA一味に引き込まれたとみられていた。……その直後、サンフランシスコの銀行に武装した集団強盗が押し入り、客ら二人に重傷を負わせたうえ、一万六百ドルを奪って逃走した事件や、五月になってロサンゼルスのスポーツ用具店で万引き、乱射事件が起きたが、このいずれにもパトリシアが参加したとみられている。また五月一七日には、ロサンゼルス市内のSLAの隠れ家で、逮捕に向かった警官隊と激しい銃撃戦が行われた。この『戦闘』でSLAの首領格、ドナルド・デフリーズ(当時三十歳)ら男二人、女四人の計六人が死亡。FBIはこの銃撃戦で撃ち漏らしたハリス夫妻とパトリシアを全米に指名手配していた。……

記事は夕刊一面準トップ、5段抜きの扱い。パトリシアが護送車の中で大笑いしているAP配信の写真がタテ3段で添えられた。本記は1行15字80行、SLAの注釈が18行で全1500字余り。社会面トップにも関連記事数本を出稿する大仕事だった。

当時のロサンゼルスに特派員を送っていたのは読売とNHK、時事通信。他に共同通信が現地日系人を通信員として置いていた。活字媒体では一部にニューヨークやワシントン発の自社電を使った社もあったが、外電を翻訳した程度の内容で紙幅的にも比較にはならず、自前の特派員電で大きく伝えたのは読売だけだった。外報部長から「着任早々、ついてるなあ」という電話をもらった。「ついてるだけではないだろう、取材力の問題だ」と思ったが深追いはせず。

その後、ロサンゼルスとサンフランシスコのほぼ中間にあるサンタバーバラ郊外、サンシメオンの丘に建つHearst Castleと呼ばれる豪邸を見に行ったこともあるが、ハースト家は事件当時、パトリシアの父ランドルフがサンフランシスコ・エグザミナーの社長を務めていた。新聞王と言っても、経営した新聞は扇情的な記事が売り物のイエロージャーナリズムと呼ばれたもので、その分野で一時代を画したファミリーだった。

パトリシアは、逮捕の翌年始まった裁判で無罪を主張、弁護人はSLAに洗脳されたに過ぎないと主張したが、陪審員は有罪の評決を下し、35年の刑が言い渡された。服役中肺を病んで、父親らの運動でジョン・ウエインやロナルド・レーガンらのハリウッド有力者が嘆願書を提出、刑期が7年に短縮され、さらに77年にはカーター大統領による特別恩赦で、保釈金150万ドルを支払い仮釈放された。地獄の沙汰もカネ次第……79年にはボディガードの警察官と結婚、二人の娘を育て、90年代に入ると、女優業にも転身した。

ちなみにSLAという過激派組織は、パトリシアの逮捕劇で壊滅、消滅した。(つづく)


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