2020年6月5日号 Vol.375

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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社会部、外報部を経て
ロサンゼルス特派員へ
日系企業進出が本格化



驚きの記事が載ったのは1974年10月9日発売の月刊文藝春秋だった。立花隆の「田中角栄研究―その金脈と人脈」と、児玉隆也が書いた「淋しき越山会の女王」の2本である。

当時首相の座にあった田中角栄氏については、自ら「政治は数、数は力、力は金だ」と広言していたように、かねてから「金権政治」の批判が高かったが、既成のマスメディアは深掘りもせぬまま、徒らに時間を空費していた。そこに、当時としてはまだ無名に近かったフリーのジャーナリストが、渾身の力作を発表して見せたのだ。

「田中角栄研究」は69年から70年にかけ、約4億円で買収した信濃川河川敷の土地が、その直後、建設省工事によって数百億円にハネ上がったカラクリを暴き、「淋しき越山会の女王」は田中の政治団体越山会の金庫番・佐藤昭が田中派でどのような影響力を行使していたか克明に紹介したもので、この二つの記事で日本国内の世情は騒然となり、田中内閣は記事が出た2ヵ月後、総辞職に追い込まれた。

先に述べたように、アメリカではワシントンポストの記者が綿密な調査報道でニクソン大統領の不正行為を告発し、大統領辞任にまで追い込んでいた。文春の記事に衝撃を受けたのは読売社会部だけではなかったはずだ。遅まきながら調査報道の大切さに目覚めて、私は社会部遊軍に「特捜班」の設置を提案し、自らキャップ格となって、1年後輩のT(後に読売の社長になった)、2年後輩のYと動き始めた。二人とも司法記者を勤め上げた俊秀で、しかも働き盛りだ。期待は高かったが、特ダネを記事にするのは容易なことではない。私は、佐藤栄作元首相が設立から関与していた団体の不明朗なカネの動きに切り込んだ記事を書いたが、ノーベル平和賞の受賞者でもあった佐藤氏は再三にわたり読売幹部に圧力をかけ、読売側は、私が社を辞めた後に、この記事を全文取り消してしまった。むろん、私に相談があった訳ではない。特捜班での仕事については、後味の悪さだけが残っている。

一種の壁に突き当たった私を見透かしたように、社会部長から「チョット外国に出てこい」と指示され、75年6月に外報部に移った。その時点でロサンゼルス特派員になることが決まっていたから、通常の人事異動とは一味違っていたが、ロサンゼルスに駐在していた社会部の先輩記者に挨拶の電話を入れると、「出来るだけゆっくり来てよ」の返事。外報部の内勤シフトに入って、海外支局から送られてくるローマ字綴りのテレックス原稿をタテ書きにしたり、AP、AFPなどの外電を翻訳する作業を始めた。

当時の外報部デスクには、自らの離婚体験をテーマにした「あの夕陽」で前年下期の芥川賞を受けた日野啓三氏がいて、互いに夜勤の夜など、よく話をした。日野氏は、私の筆力を試したのだろうか、他の部員にはしない記事の発注をしてくれた。
「スエズ運河再開のまとめ記事頼む」に始まり、「CIAについてコラム書いてよ」「KKKの現状、書ける?」などなど。私は速筆だから、すぐに作品を仕上げる。日野さんは「早いねえ」と驚いて見せ、「でも文章は雑じゃないね。論旨明解で簡略」と褒めてくれた。社会部では陰に陽に「一級の書き手」との評価が出来ていたから「当たり前だ」と思いながらも、真っ当に評価してくれたことは嬉しかった。
そんな日常が7月、8月と続いて、社会部長から「オイ、いつ行くんだ」と聞かれた。前任者がゆっくり来いと言ってるから、とも言えず、9月初めにやっと腰を上げて現地に向かった。

迎えに来てくれた前任者の車で支局に向かうが、ロサンゼルスを通り越して東に走る。着いた先はモントレー・パークという日系人が比較的多いコミュニティで、木造2階建アパートの2寝室が自宅兼支局だった。夫婦に10代の男児がいたからベッドルームは塞がり、リビングの隅にデスクとテレックス、AP通信とLAタイムズのティッカーがひしめいていた。月195ドルという家賃の安さを聞いて納得はしたが、「随分倹約しているね」というのが率直な感想だった。

正直、東京で前任者の記事はほとんど読んだことがなかったくらい、南カリフォルニアの温暖な気候に浸り込んでいたらしかった。それでも、ロサンゼルスのリトル・トーキョーを案内してもらったり、そこから目と鼻の先の市役所前に本社を構えるタイムズ本社を訪問。遺体安置所の意味があるMorgueと呼ばれる資料室の一角に机と椅子が置かれ、これが支局の出張所だと。人の良さそうな資料室のおじさんを紹介された。

ダウンタウンのAP支局では、写真部に案内され、撮影した生フィルムをここに持参すれば現像をしてくれる、そのネガを見て、これと指定すれば、それを焼き付け・引き伸ばしてSpecial for YOMIURI のクレジットで東京に電送までしてくれる、と教えられた。

当時のロサンゼルスは、米国市場進出が本格化し始めた日本企業にとって、市場開拓の先兵・橋頭堡と言える役割を担っていた。自動車、家電などの米国販売本社が置かれ、総合商社も巨大なオフィスに百人単位の駐在員を送っていた。銀行に至っては、当時国内に13あった都市銀行のうち、東京、住友、第一勧銀、三井、三菱、三和、東海、協和の8行が現地法人を作ってリテイル業務を競い合う、まさに盛観だった。当時の米国の法制では、銀行が複数の州に現地法人をつくることは認められず、富士と大和、別格の興銀がニューヨークに現法を開設、多数行がカリフォルニアを選んでいた(東銀だけは横浜正金以来の海外業務の実績からか、例外的にニューヨークとカリフォルニア両州に法人を開設していた)。日本企業の活動を中心に経済記事も書かねばならない、と気付かされた。

銀行に口座を開くに当たってSocial Security Numberが必要、というのも新鮮な驚きだった。自動車の運転免許を取りに行くと、簡易なペーパーテストで仮免許を交付され、後日、自分の車を運転して行って実技テストを受ける、その手続きが実に簡素で、日本の半ば「落とすための試験」ではなく、免許を取らせるためにある制度だと、改めて感じさせられた。

1週間ほどで前任者は帰国して行ったが、私にとっては支局のアドレスが Monterey Park, CAではいけない、との思いが強かった。LAタイムズの3行広告で賃貸物件と睨めっこし、ロサンゼルスとビバリーヒルズの境目、ラシエネガ通り北端のサンセット大通りにぶつかる少し手前にWestview Towersという、当時のこの界隈には珍しいハイライズの物件があるのを見つけた。早速訪ねると、家具付きの2寝室が空いているという。引き継いだ部屋より格段に広く、地下のパーキングには2台分のスペース、賃料は月445ドルと言うので飛びついた。75年頃は、賃料がまだこのレベルだった。赴任直後から次回で述べる仕事が相次いで、引越しは年の暮れに近かったと思う。副寝室を支局にして機材も運び込み、アドレスは晴れてLos Angeles, CAとなった。(つづく)


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