2020年2月21日号 Vol.368

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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「平和」競った札幌五輪


札幌オリンピックのポスター


1971年と72年は札幌で開かれた冬季オリンピックに関わった。オリンピックは72年だ、と言われるだろうが、前年の71年にはプレオリンピックが開かれたのだ。
五輪取材は運動部主体だが、東京五輪、大阪万博に次いで新しい日本を世界に発信する3つ目の国家的行事だったから社会部遊軍も黙っている訳にはいかない。プレの年と本番と、厳冬の季節に私は1ヵ月ずつ札幌に住んだ。
東京育ちの私だが、中学1年からスキーを始め、大学卒業の年まで毎年本州のスキー場に出掛けていた。新聞社入社後も、最初の任地が福島だったので続けられたし、丸2年という異例の短期で東京本社に帰る直前の1964年2月には猪苗代で開かれたインターハイ・スキーの取材もしていたから、ウインタースポーツの最高峰である冬季五輪に気持ちが騒がぬ筈もなかった。
札幌行きの希望はすぐに聞き入れられ、パウダースノーの北海道に胸躍る思いで市内中心部にあった北海道支社に到着……と思った瞬間、カチカチに凍りついた社屋前の歩道で思い切り転んだのだった。
キッチリと碁盤の目で作られた札幌の市街は新参者にも地理的困難を感じさせない。
加えて札幌にはススキノという繁華街があって、夜の楽しいこと……良い機嫌で外に出ても、百メートルも歩けば身体の髄まで寒気が沁み渡って正気同然になる……店を変えてまた
飲む……ハシゴ酒の繰り返しで、ねぐらに帰るのは2時3時になった。それでも若さの特権で、翌朝早くには支社に出向き、「飛行機、空いてますか?」と聞く。
この機会に流氷と北方領土を空から見てみたい、との思いが忽然と浮かんだのだ。丘珠飛行場に行くと、読売のビーチクラフト機が既にエンジンを温めていた。離陸。白い広野を一飛びして釧路に至り、そこから根室に向かう。大小さまざまの漁船が舫い、その壮観に心動かされた同行の写真部員がギリギリの低空飛行を要求、コックピットで鳴り響く警報音に肝を冷やしたが程なく北方領土に向かう。飛行4時間。その情景を『SAPPORO'71』と題した夕刊コラムに、こんなふうに書いた。
……ノサップ岬。ウマが遊んでいる。雪と氷の死の大地に、この生命が限りなく美しい。岬の東方にわずか4キロの水道を隔てて、白く平たい水晶島……北へ転じて知床半島を目ざす。流氷はぐっと密度を増して岸辺から数キロに及ぶ。途中、奇怪な形の野付半島上空からは国後島が手のとどきそうなところに横たわる。事実、島を取り巻く流氷は、そのまま知床半島の北端までつながっていた……札幌では主義も信条も超えたさまざまな国の選手たちが白い大地に「平和の祭典」を競い合っている。この町に、人と人を隔てる国境はない……
虹と雪のバラード。「東京五輪音頭」と大阪万博の「世界の国からこんにちは」に倣って札幌五輪のために作られ、プレ大会に合わせて放送されるようになった。NHKは作詞の依頼にあたって、イベントが終わっても歌い継がれる、五輪を待ち焦がれる札幌の人たちの心情を表す、落第坊主がギターを爪弾いて歌え、何千人もの合唱にも耐えうる
もの、という条件をつけた。河邨文一郎・詞、村井邦彦・曲は見事その要望に応えた。今聴いても、当時の情景が鮮やかに蘇る名曲である。

札幌から帰京して、いつもの遊軍記者としての日常に戻ったが、本田宗一郎氏との単独会見のことは前回書いた。その後に話題を賑わせたのが、ネズミ講という投資詐欺。
第一相互経済研究所などと名乗って数十万人から50億円を超す資金を集めた無限連鎖講事件だ。本部のあった熊本に幾度も出張することになる。国税と検察が動き、首謀者の内村健一は脱税のみ有罪が確定したが、出資法違反や詐欺罪での立件は見送られ、口
車に乗せられた被害者は大損をしただけで終わった。
そして夏が来る。1971年7月15日、ニクソン米大統領が突如、訪中を予告する宣言……ベトナムへの軍事介入が泥沼化し、国内に反戦の声が嵐のように渦巻く中、ニクソン政権は中国との国交正常化に打開の糸口を見出そうとした。しかも、ニクソンの電撃的宣言は一月後の8月15日にもやってきた。1オンス35ドルで固定されていた米紙幣と金との兌換の一時停止を宣言したのである。これにより、戦後長く続いてきた米ドル本位による各国通貨の固定相場制というブレトンウッズ体制が終焉する。
二つのニクソンショックは日本社会にもさまざまな影響を及ぼした。とりわけドルショック。1ドル=360円という慣れ親しんだ為替レートが突然切り上がったのだ。半月後には『円のつけが来るーー切り上げの代償』という短期連載をした。『下請けは皆殺しだ』『いつも犠牲は労働者』といった見出しが踊る。12月にはスミソニアン体制がスタート、1ドル=308円となり、すかさず書かされた 『実力308円』というコラムで「政府の打つ手は景気対策という名の企業優先が幅をきかせ、庶民はまた忍の一字を強いられる」と皮肉を言うのが精一杯だった。

やがて1972年が明ける。五輪本番……新年早々から『札幌オリンピック』『聖火の顔』と続きものを書き、開会式を迎える。社会部遊軍から東京外語大で山岳部にいたという屈強の後輩記者を一人つけてもらった。
歓喜の瞬間がやってくる……2月7日の一面トップは私が書いた。テンポの速い君が代の調べに乗って日の丸が3本上がった。抜けるような空の青と雪の白が感動をさらに盛り上げた。第11回冬季オリンピック札幌大会第4日の6日、札幌・宮の森シャンツェで行われた70メートル級純ジャンプで、日本は、笠谷幸生(ニッカウヰスキー)が一本目84メートル、二本目79メートルと、いずれも最長不倒距離をマーク、総得点244・2点で優勝、1928年の第2回サンモリッツ大会に初参加以来、45年目で日本に初の金メダルをもたらした。今野昭次(拓銀)、青地清二(雪印乳業)も健闘よく二、三位を占め、日本はこの種目の金、銀、銅メダルを独占するという快挙を達成した。
そして14日付朝刊トップ……冬のアジアに初めて灯された聖火が、横なぐりの雪空に静かに消えた。第11回冬季オリンピック札幌大会は13日夜、真駒内屋内スケート競技場で開かれた閉会式で11日間にわたる美と力の祭典の幕を閉じた。わずか百余年前、北海道開拓の先駆けとなった石狩の野に、35の国と地域から1600人を越す若者がつどい、かたい友情と連帯の輪を結び合った……。
閉会式を終えた札幌には、この夜遅くから季節外れの豪雨が降った。「五輪晴れ」の多かった大会の日々がウソのような土砂降りに、街に繰り出した各国選手たちもヤケッパチの歓声を上げていた姿が思い出される。そして私は、新聞社入社ちょうど10年で、新生日本の姿を世界に向けて発信した3大国家プロジェクトのすべてを間近に取材したのだった。(敬称略)
(つづく)


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