2020年1月24日号 Vol.366

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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社会部国際班で手掛けた
世紀の大事業「月面着陸」報道


アポロ11号のミッショ中、ニール・アームストロング船長が 撮影したバズ・オルドリン宇宙飛行士 (Buzz Aldrin on the Moon, Image Credit: NASA)


1960年代、私が在籍した当時の読売新聞社内では「社会部帝国主義」という言葉が囁かれ、社会部員の多くが肩で風を切るように闊歩。政治・経済・外報など他の取材部を圧倒する迫力があった。その社会部の中では、事件・事故を専門に扱う事件記者と、世の中のトレンドや風俗、天候、季節の行事などにも目を配る、また時には紙面でキャンペーンを張る遊軍と呼ばれる記者……2つの流れができていた。前者を硬派、後者を軟派とも呼んだ。個々の記者がこうなりたい、というのではなく、日常の仕事ぶりから自然に色分けされたように思う。
私の場合は後者だった。そのせいか、前回書いたサツ回りはわずか1年余りで卒業、ごく短期間、マチダネを拾う東京都内の城西・城南支局に行ってから警視庁の七社会に配属された。
七社会というのは、読売・朝日・毎日・日経の全国紙に東京新聞と共同通信を加えた6社の記者クラブで、廃刊するまでの時事新報も加わっていたので、この名が付いていた。加盟社ごとに間仕切りされたブースがあり、それぞれキャップ以下10人前後の記者たちが配属されていた。NHKと民放各社、産経、時事通信などは、別に警視庁記者クラブという部屋に入っていた。
桜田門の警視庁詰めともなれば、その少し前までNHKテレビが放映していた人気ドラマ「事件記者」そのものだが、私が指示された持ち場は交通・防犯部。切った張ったの捜査一課担当や、当時盛んだった学生運動や過激派の動向を追う公安・警備部担当に比べると、ヒマダネに近い。
とは言っても、当時日本全国の交通事故死者が年間1万人を遥かに超え、読売社会面に「交通戦争」のタイトルでキャンペーン的な記事が載っていたから、筆力のある記者を配置する社の意向があったかも知れない。その持ち場で私は、防犯部が摘発に力を入れていた金塊密輸という事案に注目、『密輸金』という続きものを書いた。警視庁記者が続きものを出稿するのは珍しかったが、私としては自分の特色を生かして国際社会に一歩足を踏み入れた気分だった。
この警視庁にも2年ほどしかいなかったが、後半は捜査2課・4課担当となった。捜査2課は贈収賄や詐欺などの経済・知能犯を扱い、4課は組織暴力が担当。両課とも潜行捜査が多く、何をやっているかさえ判らない。そこで、日本の新聞人独特の「夜回り」を敢行する。仕事を終えて帰宅した刑事たちの自宅に押し掛けて話を聞くという手法だ。
私には、これが苦痛だった。まず「ヤサ割り」と言って、刑事の自宅の在処を突き止めなければならない。これが結構な大仕事なのだが、その上で、激務を終えてやっと帰り着いた刑事の家を襲うのである。心遣いに欠けるというか、礼節に悖るというか、何とも気が進まなかった。酒瓶や菓子箱など目につく手土産は持参できない(他社の記者も夜回りをするので鉢合わせした時に都合が悪い)。そこで、プロ野球巨人軍のオーナー会社の利を生かして、手に入れ難かった公式戦の入場券を社内で入手し、卑屈に差し出しながら話を聞かせてもらう……中には、そうした夜回りを心待ちにしてくれるデカさんも少数ながらいて助かったが、他社を驚かせるような特ダネを書いたことはなかった。
ただ、この夜回りという手法を、アメリカに駐在するようになっても使うことになる。その話は後にしよう。

1969年初夏、警視庁詰を上がった私は、遊軍記者となった。
「花の遊軍」という言葉があって社内では憧れの職場だが、「三等遊軍」という言葉もあり、新米はまずその仲間入りをする。朝早く出勤して、夕刊用に出先のサツ回りや官公庁のクラブにいる記者から電話で送られてくる原稿を書き取る。ただ書き取るだけでなく、とくにサツ回りからの原稿には文章の脈絡や使用言語に誤りがないか、気を付けながら受け取り、デスクに出稿する前に読みやすい原稿に書き換える作業も担っていた。
私などは「うるさ型」の受け手で、私だと知ると電話を切ってしまうサツ回りもいたが、こちらもさる者で、デスクの上の電話機をありったけ自分の前に集めて、どれが鳴っても私が取る……一度切って電話をかけ直しても受け手は同じ、という意地悪もした(現在は記者全員がコンピュータの端末機器を持っているから、原稿は直に送信する……電話送稿など有り得ないだろう。新聞記事や放送原稿に日本語の誤用や不埒な文章が多いのは、出稿時点でのチェック機能が働かなくなったせいかもしれない)。
事件モノが少ない朝は、気象庁天気相談所に電話して、その日の天候や、気象全般の 話を聞き、柔らかい文章にする。あるいは築地などの市場から情報を集める……ただ、夕刊が済むと社を出て町をブラブラする。当時の読売本社は銀座にあったから、最新の流行などがすぐに目に入る。最高の息抜きでもあった。
ちょうどその頃、女優の香川京子さんと結婚していた牧野拓司という先輩記者がニューヨークの特派員から帰ってきて、社会部国際班というものを組織した。私は当然のように組み込まれ、国際的なイベントを取材するのはもとより、丸の内のレンガ街などに外国企業の進出が始まったのをきっかけに、『世界がやってきた』という不定期の連載を手掛けたりした。
69年7月、アポロ11号の月面着陸という「大事件」が起きる。社内には科学部というセクションがあって、直接的には彼らの領分だが、社会部帝国主義の読売では、紙面づくりは社会部がやる、という矜恃のようなモノがあった。となれば国際班の出番だ。
NHKの生中継を凝視しながら、コトの一部始終を見届け、しかもテレビの同時通訳を超えた日本語で記事を作らなければならない。
NHKは同時通訳にアメリカ生まれの日系二世、西山千氏を起用、それなりに判り易かったのだが、私たちは同時通訳の奥から細々と聞こえてくる英語に聞き耳を立て、AP通信のティッカーから吐き出される速報記事に食い付いて、より真実に接近しながら、この世紀の大事業を、美しく精緻な日本語で再現することに全力を上げた。
月面に着陸したのが日本時間では午前5時過ぎのことで、夕刊締め切りまでに充分な時間があったことも幸いだった。
それにしても、テレビ画面に繰り広げられるのは信じ難い情景だった。人間技とは到底思えぬことが眼前に展開されていた。
That's one small step for man, one giant leap for mankind.
人類が初めて月面に第一歩を印した、その瞬間のニール・アームストロング飛行士が発した言葉は、とりわけ印象的で、今も私の耳朶に深く刻み込まれている。あれからもう、半世紀余りになる……。(つづく)


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