2020年1月10日号 Vol.365

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
[Detail, 2] バックナンバーはこちら

インクに塗れた日々、サツまわり、
「英語屋」と駆り出された密着取材


(上段左から時計周りに)ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、 リンゴ・スター、ジョージ・ハリソン


1964年のオリンピック東京大会が終わって程なく、私の運動部での勤務が終わり、地方版紙面の割付作業をする「整理」という仕事が与えられた。
今でこそ新聞制作はコンピューターを駆使した机上作業で進められるが、当時は活版印刷の時代。整理記者は出勤すると、国内の支局や東京本社の取材各部が書いた原稿を読み、どれほどのスペースで扱うか即断して見出しをつけ、文選工程に出稿、写真も製版工程に出稿する。時間が来るとコウバと言っていた大組をする現場に降りて、裏返しの活字で並べられた記事のゲラを集め、植字工と呼ばれる工員さんを指揮して紙面を作る。今のように活字が大きくなる前のことで、1ページ15段、1段の活字数は15字。広告が5段入ったとしても10段分の紙面を組むのは容易な業ではない。しかも、全国に配る日刊紙だから締切時刻が次々に追いかけてくる。
大まかな紙面プランを持ってコウバに降りるのだが、大組中に重大事件が飛び込んでくれば突込みという作業をしなければならない。工員さんに指示を出しながら、飛び込んできた記事を速読して見出しを考え、活字のサイズなど書き込んで発注し、紙面プランそのものを刷新しなければならない。黒いインキに塗れ、綱渡りのような作業が日常だった。大組が終わると校閲さんが最後の点検をし「校了・降版」の声を聞くまでが私たちの仕事だった。
ついでに申し上げれば、私たちが作った大組は紙型という厚紙の板になって鉛版という工程に回る。それが輪転機に組み込まれて新聞が印刷される。私は約1年半、当時の新聞がどのように製作されるか、身をもって体験した。

その年期が明けて社会部勤務の辞令が出たのは1966年5月1日だった。
これでまた記者本来の仕事が出来る……ホッとした想いだったが、異動した翌日にデスクに呼ばれた。「5日付社会面の頭になるような記事を書け」。
当時は新聞休刊日が新年と5月のこどもの日と秋分の日の年3回しかなかった。こどもの日の5月5日が休刊日と言うことは、6日付の紙面が発行されない。そこで日刊紙各社は休刊日付紙面に独自ダネを載せようと競い合っていた。
異動着任したばかりの若輩に、その大事な紙面を任せるのはどう言うこと? 不審には思ったが、デスクの命令とあれば是非もない。準備していた強力な特ダネの取材が進捗せず、掲載が怪しくなったので、埋めぐさになる記事を私に命じたのだろう。
何を取材するか? 考えあぐねた挙句に思いついたのは、当時サリドマイドという化学物質が一部の睡眠薬や神経性胃炎の薬などに使われ、妊娠初期の妊婦が服用すると奇形児が生まれることが大きな話題になっていた。この不幸な子たちが集められているところはないか?
行き着いたのが東京・世田谷にあった国立子ども病院。取材の許可はあっけないほど容易に取れ、写真部のベテランカメラマンの同行も得て、勇躍、急行した。一つの部屋に7、8人が遊んでいただろうか。腕や下肢が曲がっていたり短かったり、痛ましい先天性奇形の子ら……その愛くるしい笑顔が、痛ましさをさらに引き立てるのである。医師や看護師だけでなく、居合わせた母親の話も取れて、渾身の思いで原稿を書き上げた。
第一社会面トップに『この子らに幸せを』の大見出しで掲載された記事は、それなりの反響を呼び、翌年に医薬品の承認基準を厳格化する改正法ができた。
思いがけず着任早々にトップ記事を書かされた私だったが、慣例に従ってサツまわりという仕事につく。社会部記者のイロハは、所轄と呼ばれる都内の警察署を回ることから始まる。都内には当時でも百近い警察署があり、それが第一方面から第八方面までに分けられていた。私はまず「川向こう」と呼ばれた七方面の本所署の記者溜まりに配属、半年ほどで今度は一方面の丸の内署のクラブに移った。
ビックリするような大事件は起きなかったが、一方面に来ると、管内にある明治、中央などの大学で学園封鎖の騒動が起き、その取材に忙殺された。
それともう一つ、本所署に張り付いて間がない1966年6月末から7月初めにかけて、読売新聞がビートルズを招いて東京公演を行った。「英語屋」と言われていた私は臨時に持ち場を離れ、ビートルズが泊まる永田町の東京ヒルトン(当時)の同じ階に部屋を取り密着取材をする幸運にも恵まれた。武道館で開催されたコンサートへの往復は、彼らの車のすぐ後ろにつけたハイヤーに乗り、前後をけたたましくサイレンを鳴らすポリスカーに挟まれて移動する稀有の体験もした。
時間にすれば僅かだったが、ビートルズの彼らと会話する機会もあった。一番人懐こかったのがポール・マッカートニー。リンゴ・スターは道化ていた。ジョン・レノンは既に哲学者的雰囲気を漂わせ、ジョージ・ハリスンは口数が少なかった……。

こうして社会部でも、国際行事や事件には必ず動員されて、後の国際ジャーナリストへの下地となる活動が始まった。(つづく)


HOME