2019年12月20日号 Vol.364

文:国際ジャーナリスト 内田 忠男
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私のジャーナリスト人生は
「不幸にして…」から始まった。


1964年・東京オリンピックの開会式で聖火リレーの最終ランナーを務めた坂井義則


2020年がやってくる。私にとって意味があるのは、新聞社入社3年目で幅広い取材に携わったオリンピック東京大会が再び開催されること、そして、国際報道と本格的に関わった1970年から半世紀を迎えることである。
傘寿を超えて人生の総決算が近づいている。この機会に、私がジャーナリストとして歩んできた軌跡を振り返ってみたい。それは、とりも直さず過去半世紀の世界史を振り返ることにもなるだろう。

そもそも、私はなぜ新聞記者になったか?
大学生最後の2年間、私は日本にやってくる外国人(大半はアメリカ人)のツアーガイドという副業に精を出していた。その収入は当時としては破天荒なもので、チップを含めると月10万円を超えることもあった。卒業して入社した新聞社の初任給が、他の業界に比べればかなり高額と言われたのに月2万500円に過ぎなかったから、その豊かさがお分かり頂けるだろう。
だが、副業に精を出しすぎて、当時私が希望していた総合商社に入る機を逸してしまった。時は1961年。いわゆる青田買いという企業側の手前勝手な風習が既に始まっていたのだ。
10月1日と定められた入社試験の解禁日を能天気に信じ込んでいた私は、夏休みが終わって久しぶりに出掛けた三田山上のキャンパスで、主要総合商社が既に入社内定を出し終えていることを初めて聞かされた。慌てて駆けつけた就職部の看板には、それでも求人企業の札がギッシリ並んでいた。その中で、一番先に目に飛び込んできたのが、読売新聞社だった。
当時の我が家は多くの日刊紙を併読していた。朝日、毎日、東京、日経……が、そこに読売のタイトルはなかった。家族中がジャイアンツ嫌い、のせいで、駅売でも読売を手にすることはなかった。
新聞社の入社試験がかなりの難関であることは、如何に能天気な私でも知っていたから、どうせ落とされるだろう、落ちて就職先がないとなれば、親父にアメリカへの留学を切り出せるのではないか? 落ちるために受けるのだから銘柄にこだわる必要もない。3大紙の一角であれば上等だった。
ガイドとして関わったアメリカ人の客の中には、親切にもアメリカへの留学を勧め、その際は身元引受人になると言ってくれる人たちがいた。私は半分本気で留学を考えていたのである。
落とされることを承知で臨んだという点では、4年前の大統領選挙に落選を見越して挑んだドナルド・トランプに似たようなものだが、こうした無欲はしばしば想定外の結果をもたらす。第一次の学科試験の会場に出掛け、30人の採用予定に3千人を超す受験者が詰めかけたのを見て、落とされるのは確信に変わった。とは言え、英和辞書の持ち込みを許されていた英文和訳の問題に、隣の受験生が「辞書を忘れた」と悔しがるのを見て、こんな問題、辞書などなくても解けるじゃないか、と急に真剣に取り組む気になった。
あとはトントン拍子にプロセスが進み、ついに最終面接に漕ぎつける。
「キミ、読売信条を知ってるだろ? 言ってみなさい」……役員の一人が投げつけてきた問いに一瞬凍りついたが、すぐに気を取り直した。新聞社の綱領なんて、どこも似たようなものだろうと、朝日と毎日の綱領を混ぜ合わせたようなことを答えると、座に爆笑が広がった。
「そんなことは一言も書いてない。キミはそれをどこで読んだんだ」
「申し訳ありません。私は不幸にして読売新聞を読んだことがありません」
入社後、人事担当の役員に「あの時の、不幸にして、という一言が良かった」と知らされた。
この面接では「キミは英語が得意だそうだが、どれくらい出来るの?」とも聞かれた。「英語で問いかけて下さい。それにお答えします」
新聞社に入って一番したいことを言ってみろ、というのが質問だった。
「I'd like to cover the Olympic games in Tokyo 3 years later. I still remember the miserable situation spreading all over Japan in the end of war, but in less than 20 years, we reconstructed this country better than before the war. And look at this peaceful nation. This is because incredible diligence and discipline of all Japanese people. I want to hear foreign visitors' reaction on this matter.」
編集局長が呻くように言った。「それが読売信条なんだ」
当時、英語がきちんと話せる大学卒業生は少なかった。戦後日本が、世界に向けて初めて迎える盛典を前に、新聞社は外国語のできる人材を決定的に必要としていた。私はそれ故に超高倍率の入社試験を突破したのだった。
全国紙の記者は、入社後、間もなく地方支局に配置され、そこで記者稼業のイロハを学ぶ。私の任地は福島だった。通常は短くても3年、長ければ5年は東京本社に帰れない。が、私は希少の例外だった。丸2年が経った1964年4月1日付で東京本社運動部に発令された。英語のお陰だった。
こうして私は、64年東京大会の組織委を取材し、開会式に臨み、競技としてはヨット、カヌー、ボートを担当した。目眩くような日々であった。(つづく)

※参考資料:旧・読売信条(2000年1月1日現行のものに改定)
○われらは真実と公平と友愛をもって信条とする。それが平和と自由に達する道であるからだ。○われらは左右両翼の独裁思想に対して敢然と戦う。それは民主主義の敵であるからだ。○われらはしいたげらるるものを助け個人の自由と権利を守るために戦う。それを勝利の日まで断じてやめない。○われらは日本の復興を急いで世界の尊敬と信頼をうる国たらしめんとする。それなくしては民族の生きがいがないからだ。


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