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よみタイムVol.79 12月21日号
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よみタイムVol.79 12月21日発行号 年末年始特別号

ジャズピアニストから日本政治研究第一人者へ
コロンビア大学教授・ジェラルド・カーティス氏

戦後20年が過ぎ「東京オリンピック」に向けて日本がダイナミックに前進を続けていた60年代のころ、ひとりのアメリカ人青年が日本の地を踏んだ。そのほんの数年前まで、ジャズピアノで身を立てようと考えていた青年は、政治学者となる。その名はジェラルド・カーティス博士。専門分野は日本の政治外交、比較政治学、日米関係、米国のアジア政策。長年、日本研究の第一人者として知られている。日本の歴代首相とも親しく意見を交わし「アメリカからみた日本」を親しみを込めて辛口の提言も行ってきた。カーティス博士に日本との関わりを持ったころの若き日の経緯などについてお話を聞いた。(聞き手・塩田眞実記者)



小泉純一郎元総理と

結婚式に駆けつけてくれた中曽根康弘元首相

 大きく変わった現在の日本について、カーティス博士は滑らかな日本語で話す。

 「若い人をダメだダメだと歳とった人がよく言うけど、問題は歳とってる人たち。若者はこれまでの高度成長期の典型的な日本の滅私奉公的サラリーマン・ライフスタイルから抜け出したいと思ってる。若者がいろんなことに挑戦しやすい環境を整えないと、結局日本が損しますよ」。

 「今、発展途上国は頭脳流出という問題を抱えてるけど、発展途上にあった明治時代の日本は、外国で学んだ人たちが必ず日本に戻った。それだけの受け皿があったんですね。ところが、今は会社に入って10年くらいすると日本の社会が嫌になって飛び出し、コロンビアの大学院にも来る人がすごく増えてる。先進国で頭脳流出の現象が出てるのは日本くらいじゃないかと思う」。

 「安部晋三前首相はフリーターと呼ばれる若者たちに『再チャレンジ』の機会を与えよう、と言ってた。僕、それ聞いて違和感を持ったの。安倍さんの言ってる『セカンド・チャンス』って、また元の『歩むべき正しい道』にもう一回引き戻すってだけのこと。こんなのセ『カンドチャンス』じゃないよね。アメリカ人にとって『セカンドチャンス』って言ったら、ミュージシャンだった僕が、学者になったりすることで、アメリカならサードチャンスもあるし4回目だってありうる」。

 カーティス博士はブルックリンで生まれた。当時の周りの治安・環境の悪化に一人息子への影響を心配した両親はクイーンズのファーロッカウェイに引っ越す。小学4年のことだった。

 小学校、中学校、高校、と地元の公立校を卒業。「僕はね、そのころマンハッタンにはほとんど来なかった。なんか自分とは世界が違うというか、ちょうど下町の人が山の手には足を向けない感覚に似ている。そのせいか最初の東京暮らしの時、浅草の下町風情に強い親近感を覚えました」と回想する。

 やがて高校生になりジャズの虜(とりこ)になり、音楽を聴きにマンハッタンに足繁く通うようになる。

 よく行ったのは、セレニアス・モンクやチャーリー・ミンガスが出演するビレッジの「ファイブ・スポット」や「ビレッジバンガード」。

 ある時、「ファイブ・スポット」で日本人がピアノ弾いてるの見かけた。それが70歳過ぎた今でも現役バリバリのジャズピアニスト、秋吉敏子だった。

 「僕の記憶では間違いないんですけど、今度お会いする機会があったら本人に確かめてみたいですね」と懐かしむ。「今は学者だけど、高校のころは、それほど勉強が好きじゃなかったんですよ」という。

日本語ヘのパッション凄かった
候補者密着取材で政治の道へ



大分で選挙を密着取材していた頃のカーティス博士

 ピアノといえば、カーティス博士はプロのジャズピアニストを目指していた。6歳で習い始めたピアノは12歳のころからジャズやポピュラー音楽に興味をもち開花する。

 15歳の時には、ニューヨークの音楽家組合に登録するレッキとしたプロになった。マンハッタンから車で3時間ほどかかるアップステートのキャッツキルは当時『ボルシチ・ベルト(地帯)』と呼ばれていて、ホテルが立ち並ぶ避暑地だった。

 「そこのホテルと専属契約し、高校の夏休みには毎年そこでピアノ弾いてました」という。ますます決意は固くなり、ニューヨーク州立大の音楽部に入学するが、「自分の才能の限界」を知る。

 この先どうしようと迷う中、知人から聞いた「きれいな女の子が多くて外国みたいなところ」という話にのり、ニューメキシコ州へ。生まれて初めてニューヨークを離れる大冒険だった。

 そこで夜、クラブでピアノを弾きながら、地元の州立大に編入学して卒業、奨学金を得てコロンビア大大学院に進む。漠然と、新聞記者か弁護士にでもなろうかと思案する。

 大きな転機が訪れたのは、大学院での2年目の時だった。博士課程で日本の専門家だったモーリー教授と出会ったのがきっかけだった。それまで、日本のことには興味もなかったが、日本の勉強してみたらと勧められ、まず日本語の勉強を開始。

 これが楽しかった。丸い日本語の音感を美しいと感じた。

 「08年4月に日経BP社から出版される半生を綴った自伝(日本語で書き下ろし)にも書いたんですが、音楽家にならなかったのは、才能の問題もあるけど、パッションが足りなかったんだね。でも日本語の勉強は違った。朝から晩まで漢字を一生懸命覚えようとした。日本語へのパッションが凄かった。いくらやっても疲れないし楽しいんです」と振り返る。

 「あれくらい練習していたら、ピアノももう少し上手になってたかな」と笑う。奨学金を得て日本に語学留学したのは1年後だった。

 最初は東京の西荻窪に1年住んだ。四畳半で、風呂も何もない。勉強のあと、夜は下駄を鳴らして、石鹸カタカタいわせて風呂屋に通った。

 「客は商店街の人たち、気さくに話しかけてくれて、すごく楽しかった。帰りはラーメン屋に寄り、スナックで酒を飲みながらママと四方山話をしたりね」。ここで、多くの生きた日本語を習得した。

 1年後コロンビアに戻り、博士論文のテーマを吉田茂にするか講和条約の研究にするか考えていたころ、寄宿舎の食堂で一人の日本人から聞いた衆議院選挙の話「これだ!」とひらめいた。

 図書館で資料を読んで書き上げる論文より、体験を通じて日本の草の根民主主義に触れてみたいと思った。

 奨学金を再び得て、今度は大分県の別府へ。1年間滞在して、当時運輸事務次官だった佐藤文生氏の大分2区からの衆議院選挙を密着取材する。この時完成した博士論文はその後「代議士の誕生」として出版され、カーティス博士のその後を決定付けた。

 「一番いい時期の日本を見ました。まだ革新勢力は影響力を持ってたし、学生運動も活発だった。保革のエネルギーの衝突はエキサイティングでした」。

 論文が書けるかどうか、大きな不安を抱えながらも、大分では、芸者置屋の女将が教える三味線教室で、別府の芸者や呉服屋の若旦那などに混じってお稽古事も体験した。「終わると女将と一升瓶で飲んだりね。昔から筋金入りの焼酎ファンですよ」と笑う。

 今は、半年日本に暮らし、半年がニューヨーク。この暮らしが博士は気に入っている。

 次の目標は「日本社会の変化と構造の特徴」、それと「台頭する中国を軸とする東アジアへのアメリカ外交などについても書いてみたい」という。

 「政治学を始めたのは、日本をよりよく知る窓口だったから」というのがカーティス博士の結論のようだ。24歳で始まったジパングへの冒険旅行は、今なお続いている。


ジェラルド・カーティス:1940年生まれ。政治学者、コロンビア大学教授。74年から90年まで、同大学「東アジア研究所長」著書多数。1967年の総選挙に、大分二区から立候補した佐藤文生のキャンペーンを密着取材し、日本の選挙運動を分析した博士論文を執筆。同論文を基にした「代議士の誕生」(サイマル出版)を出版し、日本で話題を呼んで日本政治研究の第一人者となった。02年に日本国際交流基金賞、04年に旭日重光章。